・肩に力を入れず、幅広い方々に興味を持っていただくきっかけになればと思います。
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2016年2月22日月曜日

【研究ノート】 トルコ情勢、2016.2、重要記事リンク


リンク記事一覧



【シリア情勢】「ロシアとトルコが戦争になる恐れ」と仏大統領 「米に積極関与を」と異例の要請

【シリア情勢】ロシアが安保理招集の意向 トルコが「事態を悪化させる」と非難
更新
【トルコ首都テロ】クルド系組織が爆弾テロの犯行声明 ネットで公表





トルコ首都の官庁エリアで爆発28人死亡 自動車爆弾、61人負傷
産経ニュース、


【シリア情勢】アサド政権攻勢で500人超死亡 北部、ロシア軍が援護射撃

シリア、30万人食料不足も、国連報告書 隣国トルコに対し「国境を開放するよう求める」と要望

【移民ショック】ドイツとトルコ、密航対策でNATOに支援要請へ 難民ボートの転覆相次ぎ



【移民ショック】対トルコの難民支援金合意 EU、3900億円拠出へ
更新



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改訂履歴
※2016.2.24、タイトル変更、「・・・重要記事抜粋」 >> 「・・・重要記事リンク」
※2016.2.24、引用文削除(リンクのみ残す)

2016年2月13日土曜日

【研究ノート】 キリスト教・東西教会、1000年ぶりのトップ会談、歴史的和解へ一歩


・西暦1054年に分裂して以来、約1000年ぶりのトップ会談
…ローマ・カトリック教会、法王フランシスコ
…東方正教会、最大勢力・ロシア正教会の最高位、キリル総主教

・キリスト教徒がイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)などから迫害されている問題などについて協議
・共同宣言発表
…「中東・アフリカ地域の国々では、キリスト教の兄弟たちの家族や村、都市が根絶やしにされようとしている」と強い懸念を表明
…「教会も攻撃や略奪の対象となり、神聖なものが冒涜(ぼうとく)されている」と強調
…その上で、共通の課題に協力して取り組む姿勢を示す

信濃注:
これって、キリスト教東西連合 vs イスラム教(一部)の構図になってないか?
(以上)



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ローマ法王が露正教最高位と会談、1054年の東西分裂後初 本格和解へ、「ISの脅威」で一致










ローマ法王、ロシア正教会総主教と会談へ 史上初、1000年近くの対立を経て









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改訂履歴
※2016.2.15、タイトル変更(他の記事との整合性をとるため)、「【研究ノート】 キリスト教・東西教会、歴史的和解へ一歩、1000年ぶりのトップ会談」 >> 「【研究ノート】 キリスト教・東西教会、1000年ぶりのトップ会談、歴史的和解へ一歩」

2016年1月8日金曜日

【研究ノート】 イエメン、国の概要


簡単まとめ


・国名: イエメン共和国、通称イエメン

・国体: 共和制、立憲国家

・歴史

7世紀 - イスラム教が流入。
19世紀初頭 - エジプトの勢力下に置かれる。
1839年 - イギリスがアデンを始めとする南イエメンを占領。以後、南イエメンはイギリスの植民地となる。
1849年 - オスマン帝国が北イエメンを再占領。
1869年 - イギリスが南イエメンにアデン保護領(1869年 - 1963年)を設置。
1918年 - オスマン帝国の第一次世界大戦敗北にともない、イエメン王国が独立。
1934年 - サウジ・イエメン戦争、en:Idrisid Emirate of Asirがサウジアラビアに併合される。
1962年 - 軍事クーデターにより、イエメン王国が崩壊。イエメン・アラブ共和国が成立するも、北イエメン内戦が勃発(~1970年)。
1963年 - アデン保護領を南アラビア保護領(1963年 - 1967年)に改称。
1967年 - 英領南アラビア保護領(南イエメン)が、南イエメン人民共和国(1967年 - 1990年)として独立。後にイエメン人民民主共和国へ改称。
1990年5月22日 - 北イエメン、南イエメンが合併し、現在のイエメン共和国が成立。
1999年9月23日 - 国民の直接投票による初めての大統領選挙が行われる。
2015年1月22日 - イスラム教シーア派武装組織のフーシがクーデターを起こし、ハーディー暫定大統領とバハーハ首相が辞任、政権崩壊(ハーディーは2月21日に辞意を撤回)。
2015年2月6日 - フーシが議会を強制的に解散し、暫定統治機構として大統領評議会を開設し、「憲法宣言」を発表。

・歴史: 2015年内戦

2015年1月22日 - フーシ派がクーデターを起こし、ハーディー暫定大統領とハーリド・バハーハ首相が辞任を表明し、政権が崩壊[2]。
2015年2月6日 - フーシ派が政権掌握を宣言[2]。
2015年2月21日 - ハーディー暫定大統領が辞意を撤回、フーシ派との対立が開始[2]。
2015年3月25日 - フーシ派がハーディー暫定大統領の拠点である南部の港湾都市アデンへと進撃し、ハーディー暫定大統領は大統領宮殿からボートで脱出[3]。
2015年3月26日 - ハーディー暫定大統領を支援するサウジアラビアなどスンナ派のアラブ諸国が空爆を開始[2]。フーシ派はイランが支持し、スンナ派対シーア派の構図の内戦となった[2]。
2015年3月以降、ハーディー政権派は国内の拠点をほとんど失っていたが、サウジアラビアやアラブ首長国連邦の軍事支援により失地回復を果した[6]。
2015年9月22日 - サウジアラビアに逃れていたハディ暫定大統領が、半年ぶりにイエメンに帰還し、イエメン南部の拠点都市アデンに入り、首都奪還に意欲を示した[10]。
2015年10月15日 - フーシ派がハーディー政権派を支援するサウジアラビアの空軍基地に弾道ミサイルを発射[13]。



・政治
…アラビア半島諸国で唯一、共和制をとる立憲国家
…現行憲法は1991年発布、1994年および2001年に改正
…2014年2月11日には連邦制を正式に採択し、連邦国家へ移行予定
 (旧南イエメン地域の分離運動を抑える狙いもある)
…大統領(国家元首)は、国民の直接選挙で選出
 (任期7年、3選禁止)
…大統領権限は強大、形式上も事実上も国家の最高指導者
…議会は二院制
 (諮問評議会と代議院で構成)
…諮問評議会議員は全員が大統領による任命制
 (諮問評議会には立法権なし、大統領への助言機関に過ぎない)
…代議院議員は国民の直接選挙で選出、任期6年
…最高司法機関は最高裁判所
…女性にも参政権が認められている

・人権
…他のアラビア半島の諸国に比して近代化が進んでいるとはいえ、イエメンもまたイスラームの保守的解釈から来る人権侵害と無縁ではない。
…イエメンは女児の結婚最低年齢に関する法律がない。

・軍事
…法律上の最高司令官は大統領
…事実上の指揮権はイエメン政府のトップである首相が有する
…正規軍
 イエメン陸軍: 60,000人の兵力を保有する。
 イエメン海軍: 1,700人の兵力を保有している。
 イエメン空軍: 5,000人の人員を保有する。
…準軍事組織
 内務省の中央保安機構
 沿岸警備隊
 共和国防衛隊、など

・経済
…失敗国家や後発発展途上国にも挙げられている
…内戦後にIMFや世界銀行の支援を受け、経済発展に取り組んでいる
…一人当たりの国内総生産は2013年で1,516ドル
 (産油国が多い周辺のアラブ諸国に比べても著しく低い)
…2007年の失業率は40%。
…1980年代から石油を産出し、貿易収入は漸増傾向にはあるものの、そのほとんどは食料品や機械類などの輸入で帳消しとなる
…2007年に天然ガス田が発見され、2009年10月に生産を開始、LNGを輸出している。
…コーヒー豆の生産は有名
 (モカコーヒーのモカとは、この国の南部にある港湾都市ムハーに由来)
…国が砂漠地帯に位置するため農業は振るわず、昔ながらの遊牧生活を営むものも多い。
…近年は石油開発で発展する隣国のサウジアラビアに出稼ぎに行く労働者も多く、その家族の多くは出稼ぎ者の送金で暮らしている。
…南部の都市アデンは古来、交易で賑わったが、1967年に英軍が撤退してから衰退し、最近は石油基地として復活している。

・国民
…人口は1994年で1267万人
…アラブ人が98%でアラビア語を話す
 (但し出生届が十分に整備されていないため概算となる)

・言語
…公用語は現代標準アラビア語
…各地域の言語として、アラビア語の各方言、および、南アラビア諸語、ラジフ語がある。

・宗教
…国民ほぼ全てがイスラム教信者
…スンナ派が5割強、シーア派が4割弱
…シーア派の大半はスンナ派とほぼ同じ教義を持つザイド派
…十二イマーム派も少数派ながら一定の勢力を持つ

・文化
…国民の殆どがイスラム教徒であるため、生活様式にもイスラムの影響が強い
 (但し、イスラムの教えよりも部族内のルールを優先することがある)
…一般的な成人男性は腰帯にジャンビーヤと呼ばれる半月形をした短剣を差している
…女性は宗教的な慣習から髪や顔を隠すためのスカーフや体を覆う布を着用している
 (サウジアラビアのように全体を隠すことが義務付けられている訳ではない)
…女性の社会進出は、主に都市部で少しずつ進みつつある
…イスラム教で禁じられている酒の代わりに、カートと呼ばれる葉を噛む習慣が広く行われている
…児童の就学率は約50%程度
 (学校に行けない子供のために、テレビ(衛星放送)による教育も試みられている)
…現存する最古の都市とされるサナア旧市街は、世界遺産に登録されている





以下、添付資料

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wikipedia-イエメン

 イエメン共和国、通称イエメンは、中東のアラビア半島にある共和制国家である。



国名

 公式の英語表記は、Republic of Yemen。通称Yemen。
 国名はアラビア語で右を意味するヤミン (yamin) から由来する。アラビア半島の南部に位置するため、朝日が上る東に向かって南側の地域と考えられた。一方、大部分が砂漠地域の中にあってイエメンの肥沃さを表すユムン (yumn) に由来するという説もある。
 古代ローマ人は幸福のアラビアと呼んでいた。





歴史

詳細は「イエメンの歴史(英語版)」、「ジャーヒリーヤ」、および「:en:List of Sunni Muslim dynasties#Arabian Peninsula」を参照

古代 - 交易の中心地、および物資集散地として繁栄。古代ギリシャや古代ローマの時代には「幸福のアラビア (Arabia a Felix)」として知られる(Sabaean Kingdom、early 1st millennium BC)。

紀元前8世紀頃 - ハドラマウト王国(紀元前8世紀 - 3世紀)が繁栄。
紀元前7世紀頃 - シバ王国が、農耕の発達や、インド産香料の中継貿易によって繁栄。en:Kingdom of Awsanの都市がSabaeansに破壊された。
紀元前110年 - ヒムヤル王国(紀元前110年 - 525年)が建国される。
350年 - ヒムヤル王国がアクスム王国(110年 - 940年)から侵入を受ける。
525年 - ヒムヤル王国のDhu Nuwas王の治世に、ユスティニアヌス1世から侵入を受ける。
531年 - Abraha率いるエチオピアの勢力がイエメンに侵攻し、King of Sabaを宣言。
575年 - サーサーン朝ペルシャの支配を受ける。

7世紀 - イスラム教が流入。
9世紀 - ズィヤード朝が成立。ザイド派のイマーム(宗教指導者)が支配。
11世紀 - スライフ朝(1047-1138年)
12世紀- ズライ朝(1138-74年)をトゥーラーン・シャー(1174年-1180年)が滅ぼし、彼と父ナジムッディーン・アイユーブを同じくする弟サラーフッディーンを始祖とするアイユーブ朝の支配を受ける(1174-1229年)
13世紀 - ザイド派(シーア派の一派)のイマームを祖とする(en:Imams of Yemen)が成立。
14世紀 - Al Kathiri (Hadhramaut) 王家は近年まで存続。
15世紀 - ラスール朝(1229-1454年)が紅海・アラビア海・インド交易の拠点として繁栄する。同王朝に鄭和の艦隊が来航
16世紀 - オスマン帝国の支配下に入るが、イエメン人はオスマン帝国に対し抵抗。1世紀後にオスマン勢力を駆逐し、ザイド派勢力による支配を再び受ける。

19世紀初頭 - エジプトの勢力下に置かれる。
1839年 - イギリスがアデンを始めとする南イエメンを占領。以後、南イエメンはイギリスの植民地となる。
1849年 - オスマン帝国が北イエメンを再占領。
1869年 - イギリスが南イエメンにアデン保護領(1869年 - 1963年)を設置。
1918年 - オスマン帝国の第一次世界大戦敗北にともない、イエメン王国が独立。
1934年 - サウジ・イエメン戦争、en:Idrisid Emirate of Asirがサウジアラビアに併合される。
1962年 - 軍事クーデターにより、イエメン王国が崩壊。イエメン・アラブ共和国が成立するも、北イエメン内戦が勃発(~1970年)。
1963年 - アデン保護領を南アラビア保護領(1963年 - 1967年)に改称。
1965年 アル=マフラ県に隣接するオマーンのドファール地方で、南イエメンが支援するDhofar Liberation Front(DLF)によるドファールの反乱(1962年-1976年)が激化。
1967年 - 英領南アラビア保護領(南イエメン)が、南イエメン人民共和国(1967年 - 1990年)として独立。後にイエメン人民民主共和国へ改称。
1989年11月30日 - アデン合意により南北統一への途が開かれる。
1990年5月22日 - 北イエメン、南イエメンが合併し、現在のイエメン共和国が成立。成立したイエメン共和国の初代の大統領として北イエメン大統領を務めていたアリー・アブドッラー・サーレハが務めることになる。
1994年5月4日 - 旧南側勢力が再独立を求め、イエメン内戦が勃発。しかし、南側勢力は国際的な支持を得られず、約2ヶ月で鎮圧される(~7月7日)。
1999年9月23日 - 国民の直接投票による初めての大統領選挙が行われる。サーレハ大統領が再選する。
2000年6月12日 - サウジアラビアとの国境線が画定し、領土面積が正式なものとなる。
2000年10月 - 旧南イエメンの首都であったアデンにあるアデン港で、イスラム原理主義勢力アルカーイダによる米艦コール襲撃事件が起こる。なお、ハドラマウト(イエメンのアル=マフラ県、オマーンのドファール地方を含む)はアルカーイダの指導者だったウサーマ・ビン・ラーディンの父親の出身地。
2011年1月 - チュニジアでのジャスミン革命、エジプトでの民衆革命に影響を受けて市民による反政府デモが発生(アラブの春、2011年イエメン騒乱)。この結果、サーレハ大統領は退陣し、ハディ副大統領が翌年2月の暫定大統領選挙で当選。
詳細は「en:2014–15 Yemeni coup d'état」を参照
2015年1月22日 - イスラム教シーア派武装組織のフーシがクーデターを起こし、ハーディー暫定大統領とバハーハ首相が辞任、政権崩壊(ハーディーは2月21日に辞意を撤回)。
2015年2月6日 - フーシが議会を強制的に解散し、暫定統治機構として大統領評議会を開設し、「憲法宣言」を発表。



2015年内戦

2015年1月22日 - フーシ派がクーデターを起こし、ハーディー暫定大統領とハーリド・バハーハ首相が辞任を表明し、政権が崩壊[2]。
2015年2月6日 - フーシ派が政権掌握を宣言[2]。
2015年2月21日 - ハーディー暫定大統領が辞意を撤回、フーシ派との対立が開始[2]。
2015年3月25日 - フーシ派がハーディー暫定大統領の拠点である南部の港湾都市アデンへと進撃し、ハーディー暫定大統領は大統領宮殿からボートで脱出[3]。フーシ派がハーディー暫定大統領の捕縛に2000万イエメン・リアル(約1100万円)の報奨金をかけ、行方を追う事態となった[3]。
2015年3月26日 - ハーディー暫定大統領を支援するサウジアラビアなどスンナ派のアラブ諸国が空爆を開始[2]。フーシ派はイランが支持し、スンナ派対シーア派の構図の内戦となった[2]。
2015年7月17日 - ハーディー政権派がフーシ派から、イエメン第2の都市である南部のアデンを奪還したと発表[4]。
2015年8月4日 - ハーディー政権派がイエメン最大のアルアナド空軍基地をフーシ派から奪還したと発表[5]。
2015年8月11日 - 中東のテレビ局「アルジャジーラ」がハーディー政権派がアビヤン州を制圧したと報道[6]。2015年3月以降、ハーディー政権派は国内の拠点をほとんど失っていたが、サウジアラビアやアラブ首長国連邦の軍事支援により失地回復を果した[6]。
2015年8月15日 - ハーディー政権派が中部シャブワ州を奪還[7]。5つ目の州の奪還となった[7]。ハーディー政権派はサウジアラビア主導の空爆支援を、アラブ首長国連邦などから武器供与や軍事顧問団の支援を受け、攻勢に転じていると報じられた[7]。
2015年8月19日 - アムネスティ・インターナショナルが、イエメンの首都サナア、アデン、タイズへ攻撃を行っているサウジアラビアを戦争犯罪を行なっているとして非難[8]。アムネスティーによれば、この紛争による死者数は4千人に達しており、そのうち半数が一般住民だという[8]。
2015年8月24日 - WFPが「(イエメンの人口の2割以上に当たる)600万人が深刻な食糧難に陥り、緊急支援を必要としている」と指摘[9]。「数百万人規模の飢餓が引き起こされる恐れがある」と警告[9]。
2015年9月22日 - サウジアラビアに逃れていたハディ暫定大統領が、半年ぶりにイエメンに帰還し、イエメン南部の拠点都市アデンに入り、首都奪還に意欲を示した[10]。
2015年10月3日 - ジュネーブで開かれた国連人権理事会の通常会期で、オランダが内戦状態のイエメンへの調査団派遣を求める決議案を提出したが、イエメンで空爆を続ける紛争当事国のサウジアラビアが阻止し、オランダは決議案を取り下げた[11][12]。
2015年10月15日 - フーシ派がハーディー政権派を支援するサウジアラビアの空軍基地に弾道ミサイルを発射[13]。





政治

詳細は「イエメンの政治(英語版)」を参照
「イエメンの国際関係(英語版)」も参照

 イエメンは、アラビア半島諸国において唯一共和制をとる立憲国家である。
 現行憲法は1991年に発布され、1994年および2001年に改正されたものである。
 民主化に強い意欲があり、言論の自由も認められているとされるが、サーレハ政権下ではサーレハ個人や一族に対する批判は認められておらず、厳しい取締りを受けていた。
 2014年2月11日には連邦制を正式に採択し、連邦国家へ移行する予定である。これは、旧南イエメン地域の分離運動を抑える狙いもある[14][15][16]。
 国家元首である大統領は、国民の直接選挙により選出される。任期は7年で、3選禁止。その権限は強大で、形式上も事実上も国家の最高指導者である。副大統領と首相は大統領により任命される。
 内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、首相の助言に基づき大統領が任命する。
 議会は二院制で、諮問評議会(111議席)と代議院(301議席)から構成される。諮問評議会議員は全員が大統領による任命制。代議院議員は国民の直接選挙で選出され、任期は6年。ただし、諮問評議会に立法権は無く、大統領の政策に対する助言機関に過ぎないことから、イエメン議会は実質的に立法権を行使しうる代議院人民代表院のみの一院制であるとする説もある。
 主要政党には旧北イエメン与党でアリー・アブドッラー・サーレハ大統領率いる国民全体会議、旧南イエメンの政権党であったイエメン社会党、そしてイエメン改革連合の3党がある
 最高司法機関は最高裁判所。
 女性にも参政権が認められている。





人権

詳細は「イエメンの人権(英語版)」を参照

 他のアラビア半島の諸国に比して近代化が進んでいるとはいえ、イエメンもまたイスラームの保守的解釈から来る人権侵害と無縁ではない。
 イエメンは女児の結婚最低年齢に関する法律がない。これはイエメンは女子の結婚最低年齢に関して、イスラーム法上一般的な9歳という解釈を取っていない為である。そのため、イランやサウジアラビアなど、シャリーアを施行する他のイスラーム国家でさえ不可能な9歳未満の女児との結婚・セックスも可能であり、問題視されている[17][18]。
 イスラム国家としては、極めて強い特色があり、サウジ・イランなどと同様飲酒・レイプなどをした場合、公開鞭打ちを執行された事例もある。
 2009年には、17歳未満の結婚を禁止する法案が提案されたが、保守派の反対にあって不成立となっている。2013年9月、40歳の男性と結婚した8歳の少女が、新婚初夜の性行為の最中に子宮破裂などの臓器損傷を負い、死亡したと報道された。現地警察などの調査では、関係者はこの報道について否定したが、イエメンの人権担当大臣は未成年の結婚を禁止すると明言した[19]。





軍事

詳細は「イエメン軍」を参照

以下、wikipedia-イエメン軍より

 イエメン軍は、イエメン陸軍、イエメン海軍、イエメン空軍の三軍種で構成されるイエメンの軍隊である。
 イエメン軍の法律上の最高司令官は大統領だが、事実上の指揮権はイエメン政府のトップである首相が有している。イエメン軍の管理・運営は国防省 (Ministry of Defence) が担当する。

正規軍

イエメン陸軍: 60,000人の兵力を保有する。
イエメン海軍: 1,700人の兵力を保有している。 基地がアデン、ホデイダ、ソコトラ、アルムカラ、ぺリム島に存在する。「イエメン海軍艦艇一覧」も参照
イエメン空軍: 5,000人の人員を保有する。

準軍事組織

 この他、準軍事組織として内務省の中央保安機構、沿岸警備隊をはじめ、共和国防衛隊などがある。




地理

詳細は「イエメンの地理(英語版)」を参照

 アラビア半島の南西、北緯12度から20度に位置する。
 紅海、アデン湾、アラビア海に面し、北でサウジアラビア、東でオマーンと国境を接し、アデン湾、紅海を挟んでソマリア、ジブチ、エリトリアに対面する。本土以外にソマリアの沖にあるインド洋のソコトラ島 (3625km²) なども領有している。
 面積は約52万8000km²。首都はサナア。
 地理学的には4つの地域に分けられる。紅海沿岸、西部山地、東部山地、北のルブアルハリ砂漠である。
 ティハーマと呼ばれる紅海沿岸部は非常に乾燥しており、山地から流れる川は見られずワジあるいは地下水になっている。西部山地は降水量が大きいため段々畑で農業が営まれる。ソルガムが主で、綿花とマンゴーなど果実も栽培される。昼夜の気温差が大きい。東部は標高2000mで、さらに気温差が大きく昼間30℃、夜間0℃となる。大麦や小麦が栽培される。ルブアルハリ砂漠ではベドウィンがラクダの遊牧を行っているだけである。






経済

詳細は「イエメンの経済(英語版)」を参照

 一人当たりの国内総生産は2013年で1,516ドルと産油国が多い周辺のアラブ諸国に比べても著しく低く[1]、失敗国家や後発発展途上国にも挙げられている。
 2007年の失業率は40%。
 1980年代から石油を産出し、貿易収入は漸増傾向にはあるものの、そのほとんどは食料品や機械類などの輸入で帳消しとなる。また2007年に天然ガス田が発見され、2009年10月に生産を開始し、LNGを輸出している。
 コーヒー豆の生産は有名で、モカコーヒーのモカとは、この国の南部にある港湾都市ムハーに由来する。しかし国が砂漠地帯に位置するため農業は振るわず、昔ながらの遊牧生活を営むものも多い。漁業も比較的盛ん。近年は石油開発で発展する隣国のサウジアラビアに出稼ぎに行く労働者も多く、その家族の多くは出稼ぎ者の送金で暮らしている。
 南部の都市アデンは古来、交易で賑わったが1967年に英軍が撤退してから衰退し、最近は石油基地として復活している。
 内戦後にイエメンはIMFや世界銀行の支援を受け、経済発展に取り組んでいる。





国民

詳細は「イエメンの人口統計(英語版)」を参照

 人口は1994年で1267万人、アラブ人が98%でアラビア語を話す(但し出生届が十分に整備されていないため概算となる)。



言語

 現代標準アラビア語がイエメンの公用語である。
 各地域の言語としてアラビア語の各方言(北イエメン方言、南イエメン方言、ハドラマウト方言)および南アラビア諸語(マフラ語、ソコトラ語、ホビョト語、バトハリ語)、ラジフ語がある。



宗教

詳細は「イエメンの宗教(英語版)」を参照
「イエメンのイスラム教」も参照

 国民ほぼ全てがイスラム教信者で、スンナ派が5割強、シーア派が4割弱である。シーア派の大半はスンナ派とほぼ同じ教義を持つザイド派であるが、十二イマーム派も少数派ながら一定の勢力を持つ。





文化

「イエメンの文化」も参照

 国民の殆どがイスラム教徒であるため、生活様式にもイスラムの影響が強い。但し、イスラムの教えよりも部族内のルールを優先することがある。
 一般的な成人男性は腰帯にジャンビーヤと呼ばれる半月形をした短剣を差している。この短剣は、所有者の家柄や部族、貧富といった属性を表している。実用面よりもシンボルとしての性格が強いため、刃が研がれていないことも多く、日常的に使用することはない。都市部ではスラックスにYシャツ姿の男性も多く見かけるが、その場合でも多くの男性は自宅に自分のジャンビーアを持っている。
 女性は宗教的な慣習から髪や顔を隠すためのスカーフや体を覆う布を着用しているが、サウジアラビアのように全体を隠すことが義務付けられている訳ではない。また、スカーフの色も比較的自由である。これは個人やその家族の信仰の深さによって判断されるためで、信仰が深くなればそれだけ肌を隠す面積も多くなる。女性のイスラム服の着用の程度はイスラム復興等の社会傾向の影響も受けるが、一般的にイエメンの女性は他イスラム国と比較した場合、着用率が非常に高い。
 女性の社会進出は、主に都市部で少しずつ進みつつある。
 イスラム教で禁じられている酒の代わりに、カートと呼ばれる葉を噛む習慣が広く行われている。カートはイエメン人の社交になくてはならないものであり、街中や個人宅で何人かで寄り集まり、カートを噛みながら談笑にふける姿がよく見られる。
 児童の就学率は約50%程度であり、学校に行けない子供のために、テレビ(衛星放送)による教育も試みられている。
 現存する最古の都市とされるサナア旧市街は、世界遺産に登録されている。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
改訂履歴
なし

2016年1月6日水曜日

【研究ノート】 バーレーン、国の概要


簡単まとめ



・国名: バーレーン王国、通称バーレーン
…2002年、バーレーン国(State of Bahrain)から現在の名称に変更
…ペルシア湾のバーレーン島を主島とし、大小33の島(ムハッラク島など)から成る島国
…首都はマナーマ
…王家のハリーファ家は、クウェートのサバーハ家やサウジアラビアのサウード家と同じくアナイザ族出身でスンナ派
…1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかったサファヴィー朝やアフシャール朝の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数をシーア派がしめる

・歴史
…16世紀、ペルシャの圧力を受ける中、ポルトガルが進出
…1782年 ハリーファ家がカタールから移住。支配が始まる
…1867年 カタール・バーレーン戦争
…1868年 イギリス・バーレーン合意
…1880年 イギリスの保護国となる
…1931年 米国の国際石油資本スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア(通称ソーカル、SoCal。現:シェブロン)の子会社であるBahrain Petroleum Company(BAPCO)が石油を発見
…1968年 イギリス軍のスエズ以東撤退が発表されたのを契機に、バーレーンを含む湾岸の9首長国が連邦結成協定を結ぶ
…1971年 バーレーン国として独立
…1975年 議会廃止
…2001年 民主化推進に向け、国民投票を実施
…2002年 国名をバーレーン王国へ改称し、絶対君主制から立憲君主制へ移行
…2011年 2011年バーレーン騒乱。シーア派国民による反政府デモが起こる。

・地理
…サウジアラビアの東、ペルシャ湾内にある群島
…サウジアラビアとは「キング・ファハド・コーズウェイ」という全長約24kmの橋で結ばれている
…国土の大半が砂漠と石灰岩
…ケッペンの気候区分は砂漠気候(BW)

・国体: 立憲君主制
…2002年、立憲君主制とし、君主の称号をマリク(国王)と改める
 (シャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ首長が国王(マリク)に即位)
…二院制の議会を設置
 (国王が任命する評議院と直接選挙による代議院)
…男女平等参政権や司法権の独立などの体制を整えている
…かつては絶対君主制であり、「クウェートより危うい国」とされていた
…湾岸戦争以後、民主化を求める国民の暴動が絶えず、首長(アミール)の下で民主化実行

・外交
…隣国サウジアラビアの実質的な保護国
…サウジアラビアとは、王家が同じ部族出身ということもあって関係が深い
 (2011年バーレーン騒乱の際は、サウジアラビアの軍事介入によって事態収束)
…中東地域の国々や英、仏、日本、米を始め、多くの国と良好な関係
…親米国
…カタールとハワール諸島に関する領土問題あり
…イラクと関係が悪かった
 (湾岸戦争時にミサイルで狙われた)
…大国イランとは、ペルシア湾を挟んで向かい合う
…イラン・パフラヴィー朝が「バーレーンは歴史的にみてイラン(ペルシア)の領土である」と領有権を主張していたことから、同国に対して警戒心が強いとされる
…イラン・イスラーム革命後は、イランが国内のシーア派を扇動して体制転覆を図るのではないかと脅威に感じており、バーレーンのスンナ派住民の間には、こうした警戒心から反イラン・反シーア派感情が強いとされる。
…2016年1月4日、イランと国交断絶
(2016年1月2日にサウジアラビアがイスラム教シーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけに、サウジアラビアとイランの関係は急速に悪化。さらにイランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけに、1月3日、サウジアラビアはイランとの国交を断絶。これに続いてバーレーンもイランとの国交断絶)

・軍事
…湾岸戦争後、米と防衛協定を結ぶ
…米軍が駐留、第5艦隊の司令部がある
…南部の約25%が米軍基地

・経済
…2011年のGDPは約261億ドルと推計(IMF統計)
…日本の島根県よりやや小さい経済規模
…隣国サウジアラビアとは橋で結ばれているため、経済的な結びつきが強い
…GDPの約30%は石油関連事業による
 (中東で最も早く石油採掘を行った国)
…石油の恩恵で国民には所得税が皆無
…1970年ごろから石油が枯渇し始め、あと20年余りで完全に枯渇するという問題に直面
…観光にも力を入れている
…通貨単位はバーレーン・ディナール。レートは1米ドル=0.377バーレーン・ディナール
 (2010年12月3日現在)

・国民
…バーレーン国籍は46%(568,39人)に過ぎず、半数以上の54%(666,172人)が外国人労働者
 (2010年調査)
…外国人労働者で最多はインド人で、290,000人超
…住民はアラブ人が7割(バーレーン人が63%、その他のアラブ人が10%)。他にイラン人が8%、アジア人(印僑など)が19%など
…シーア派多数の人口構成を変えるため、パキスタン等他のスンナ派イスラーム諸国からの移民を受け入れ、国籍を与えていると言われている。

・言語
…公用語はアラビア語、日常的にはバーレーン方言
…他にペルシア語、ウルドゥー語、ヒンズー語など
…英語も広く使われている

・宗教
…国教はイスラム教
…バーレーン国籍保持者に限ると、イスラームが99.8%
 (シーア派が75%、スンナ派が25%)
…外国籍を含むと、イスラームは70.2%、残りはキリスト教14%、ヒンズー教10%
…王家のハリーファ家は、クウェートのサバーハ家やサウジアラビアのサウード家と同じくアナイザ族出身でスンナ派
…1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかったサファヴィー朝やアフシャール朝の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数をシーア派がしめる
…少数派のスンナ派は政治やビジネスなどの面で優遇されて支配層を形成しているのに対して、多数派のシーア派は貧困層が多く、公務員や警察には登用されないなど差別的な待遇に不満を感じているとされる。こうした不満が、2011年バーレーン騒乱に繋がったと見る向きもある。

・宗教的規制
…サウジアラビアやイラン等の周辺国に比べると、宗教的規制はかなりゆるやか
 (全世界からビジネスマンや観光客が来るためか)
…アルコールは自由に飲むことができ、週末になると飲酒を禁じられている周辺国から酒を求めてムスリムが集まって盛り上がる
…女性も顔や姿を隠す必要はなく、Tシャツでも自由に過ごせる

・音楽
…欧米の軽音楽の聴取が自由
…それらに影響された軽音楽がバーレーンでも製作されている

・女性の社会進出
…政治的社会進出も他の湾岸諸国に比べて進んでいる
…政府の要職に女性が就くことも珍しくない。
(アラブ女性連合最高評議会議長のサビーカ王妃、第61回国連総会議長のハヤー・アール・ハリーファ、同国初の女性閣僚となったナダー・アッバース・ハッファーズ博士など)
…就業率は23.5%(2001年)、大学進学率は11.8%(2001年、男子は13.2%)と高い水準

・スポーツ
…最も人気なのはサッカー
…F1誘致に成功、2004年からバーレーンGPを開催
 (西部の港町ザラク近郊の砂漠地帯であるサヒールにサーキットを建設)





以下、添付資料

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wikipedia-バーレーン

 バーレーン王国、通称バーレーンは、中東・西アジアの国家。
 首都はマナーマ。ペルシア湾のバーレーン島(英語版)を主島として大小33の島(ムハッラク島など)から成る君主制の島国である。
 王家のハリーファ家はクウェートのサバーハ家やサウジアラビアのサウード家と同じくアナイザ族出身でスンナ派であるが、1782年以前はシーア派以外の宗派を認めていなかったサファヴィー朝やアフシャール朝の支配下にあった経緯もあり、国民の大多数をシーア派がしめる。
 1994年以後、シーア派による反政府運動が激化し、2001年2月に行われた国民投票によって首長制から王制へ移行した。



国名

 公式の英語表記は Kingdom of Bahrain。通称 Bahrain。
 日本語の表記はバーレーン王国。通称バーレーン。バハレーン、バハレインと書かれることもある。正則アラビア語に従った仮名表記では「バフライン」になる。
 国名のبحرينは[2]アラビア語で「二つの海」という意味であり、島に湧く淡水と島を囲む海水を表すとされている。2002年、バーレーン国(State of Bahrain)から現在の名称に変更した。





歴史

詳細は「バーレーンの歴史(英語版)」を参照

 かつてはディルムン文明と呼ばれるエジプト文明やシュメール文明に匹敵する文化の中心地であったといわれている。15世紀ごろまでは真珠の産地であった。

16世紀、ペルシャの圧力を受ける中、ポルトガルが進出
1782年 ハリーファ家がカタールから移住。支配が始まる
1867年 カタール・バーレーン戦争
1868年 イギリス・バーレーン合意
1880年 イギリスの保護国となる
1931年 米国の国際石油資本スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア(英語版)(通称ソーカル、SoCal。現:シェブロン)の子会社であるen:Bahrain Petroleum Company(BAPCO)が石油(en:First Oil Well, Bahrain)を発見。
1968年 イギリス軍のスエズ以東撤退が発表されたのを契機に、バーレーンを含む湾岸の9首長国が連邦結成協定を結ぶ
1971年 バーレーン国として独立
1975年 議会廃止
1990年代 en:1990s uprising in Bahrain
2001年 民主化推進に向け、国民投票を実施
2002年 国名をバーレーン王国へ改称し、絶対君主制から立憲君主制へ移行
2011年 2011年バーレーン騒乱。シーア派国民による反政府デモが起こる。





地理

「バーレーンの都市の一覧」も参照

 サウジアラビアの東、ペルシャ湾内にある群島。国土の大半が砂漠と石灰岩に覆われている。
ケッペンの気候区分は砂漠気候(BW)。
 サウジアラビアとは「キング・ファハド・コーズウェイ」という全長約24kmの橋によって結ばれている。





政治

政体

 かつては絶対君主制で、「クウェートより危うい国」とされていたが、湾岸戦争以後、民主化を求める国民による暴動が絶えず、首長(アミール)であるシャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファの下で次々と民主化を実行し、2002年より政体を立憲君主制とし、君主の称号をマリク(国王)と改めた。シャイフ・ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ首長は国王(マリク)に即位した。
 二院制の議会(国王が任命する評議院と直接選挙による代議院)を設置し、内閣には国王によって任命される首相を置き、男女平等参政権や司法権の独立などの体制を整えている。



外交

 外交面では中東地域の国々やイギリス、フランス、日本、アメリカを始め、多くの国と良好な関係を築いており、また親米国だが、カタールとハワール諸島に関しての領土問題がある。
 イラクと関係が悪かったこともあり、湾岸戦争時にミサイルで狙われたこともある。
 またペルシア湾を挟んで向かい合う大国イランとは、パフラヴィー朝が「バーレーンは歴史的にみてイラン(ペルシア)の領土である」と領有権を主張していたことから、同国に対して警戒心が強いとされる。
 イスラーム革命後は、イランが国内のシーア派を扇動して体制転覆を図るのではないかと脅威に感じており、バーレーンのスンナ派住民の間には、こうした警戒心から反イラン・反シーア派感情が強いとされる。アメリカも「敵の敵は味方」思考からスンナ派(政権側で少数派)のシーア派(国内多数)弾圧に懸念を表明しつつも、対話を促す程度にとどまってきた。
 2016年1月2日にサウジアラビアがイスラム教シーア派の有力指導者を処刑したことをきっかけにサウジアラビアとイランの関係は急速に悪化し、イランの首都テヘランにあるサウジアラビア大使館が襲撃されたことをきっかけにサウジアラビアはイランとの国交を断絶し、これに続いてバーレーンもイランとの国交断絶を行っている[3]。
 隣国サウジアラビアとは、王家が同じ部族の出身ということもあって関係が深く、実質的な保護国となっている。2011年バーレーン騒乱の際は、サウジアラビアの軍事介入によって事態が収束した。





軍事

詳細は「バーレーン国防軍」を参照

 軍事面では湾岸戦争後、アメリカと防衛協定を結び、アメリカ軍が駐留しており、第5艦隊の司令部がある。南部の約25%がアメリカ軍基地となっている。





経済

 IMFの統計によると、2011年のバーレーンのGDPは約261億ドルと推計されており[4]、日本の島根県よりやや小さい経済規模である[5]。
 隣国サウジアラビアとは橋で結ばれているため、経済的な結びつきが強い。
 中東で最も早く石油採掘を行った国で、GDPの約30%は石油関連事業によるものであり、その恩恵で国民には所得税が皆無であるが、1970年ごろから石油が枯渇し始め、このままいくと、あと20年余りで完全に枯渇するという問題に直面している。
 しかし、世界最大の産油国サウジアラビアの隣国であり同国が事実上の鎖国体制を敷いていることやペルシャ湾の入口にあるという地理的特性を活かし、中東のビジネスの拠点、金融センターを目指してインフラ整備を進め、石油精製やアルミ精製、貿易、観光などの新規事業も積極的に展開し、多国籍企業を始めとした外国資本が多数進出している。
 2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、バーレーンは世界第42位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタールに次ぐ第3位である[6]。
 観光にも力を入れており、現在は豊かな国の一つとして数えられているが、失業率が15%超 (政府発表値約6.6%:2003年) とGDPと比べて高い。
 通貨単位はバーレーン・ディナール。レートは1米ドル=0.377バーレーン・ディナール(2010年12月3日現在)





国民

 2010年の調査によると、バーレーン国籍は46%(568,39人)に過ぎず、半数以上の54%(666,172人)を外国人労働者が占めている。外国人労働者の中で最大の勢力はインド人で290,000人を数える。
 住民はアラブ人が7割ほどを占めている(バーレーン人が63%、その他のアラブ人が10%)。その他にイラン人が8%、アジア人(印僑など)が19%などとなっている。
 シーア派多数の人口構成を変えるために、パキスタン等他のスンナ派イスラーム諸国からの移民を受け入れ、国籍を与えていると言われている。



言語

 言語は公用語がアラビア語で、日常的にはバーレーン方言が話される。他にペルシア語、ウルドゥー語、ヒンズー語などが使われる。英語も広く使われている。



宗教

 宗教は、バーレーン国籍保持者に限ると、イスラームが99.8%に達し国教となっている。そのうちシーア派が75%、スンナ派が25%となっている。外国籍を含むと、イスラームが70.2%にまで下がり、残りはキリスト教が14%、ヒンズー教が10%などとなっている。
 近年はインドなどからの労働者の増加により、非イスラム教の割合が増加傾向にある。
 少数派であるスンナ派は政治やビジネスなどの面で優遇されて支配層を形成しているのに対して、多数派であるシーア派は貧困層が多く、公務員や警察には登用されないなど差別的な待遇に不満を感じているとされる。こうした不満が、2011年バーレーン騒乱に繋がったと見る向きもある。



宗教的規制

 全世界からビジネスマンや観光客が来ることもあってか、サウジアラビアやイラン等の周辺国に比べると、宗教的規制はかなりゆるやかである。
 例えばアルコールは自由に飲むことができ、週末になると飲酒を禁じられている周辺国から酒を求めてムスリムが集まって盛り上がる。また、女性も顔や姿を隠す必要はなく、Tシャツでも自由に過ごすことができる。





文化

音楽

 欧米の軽音楽の聴取が自由であり、それらに影響された軽音楽がバーレーンでも製作されている。1981年にデビューしたオシリス (Osiris) はバーレーンを代表するロック・バンドで、ヨーロッパでもレコード、CDが発売されている。



女性の社会進出

 女性の政治的社会進出も他の湾岸諸国に比べて進んでおり、就業率は23.5%(2001年)、大学進学率は11.8%(2001年、男子は13.2%)と高い水準を誇る[7]。
 またサビーカ王妃がアラブ女性連合最高評議会の議長を務めるほか、第61回国連総会議長のハヤー・アール・ハリーファ、同国初の女性閣僚となったナダー・アッバース・ハッファーズ博士など政府の要職に女性が就くことも珍しくない。



スポーツ

 スポーツで最も人気なのはサッカーであり、2006 FIFAワールドカップのアジア最終予選を抜けようと努力し、ホームのバーレーンのスタジアムではバーレーン国がチケットを買い上げ、それをバーレーンの市民に無料に配布してホームの試合を盛り上げるなどした。
 2002年に釜山で行われたアジア大会サッカー競技で当時のU-21日本代表と対戦して以来、バーレーン代表は抽選の都合日本代表との対戦機会が急増しており、国際Aマッチの範囲だけでも2002年から2010年にかけて9試合を交えている[8]。
 また西部の港町ザラク近郊の砂漠地帯であるサヒールにサーキットを建設し、F1開催の誘致に成功、2004年からバーレーンGPを開催している。



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改訂履歴
なし

2016年1月5日火曜日

【研究ノート】 サウジ・イラン断交、2016.1、重要記事リンク


主要解説記事

【サウジ・イラン断交】佐藤優氏、イランに近づいた米に対するサウジの「怒りのメッセージだ」 山内昌之氏はサウジ「最悪のシナリオ」を指摘 産経ニュース、

【サウジ・イラン断交】作家・元外務省主任分析官、佐藤優氏「第三次世界大戦に発展の恐れも」
産経ニュース、



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リンク記事一覧(時系列)



対立するサウジ、イラン外相が出席2月の独安保会議

イラン大統領が欧州訪問 制裁解除後初、市場復帰に期待
産経ニュース、
政府、中東戦略見直し イラン制裁解除もサウジとの対立考慮 エネルギー資源分散化










【イラン制裁解除】安保理、国営セパ銀行の解除を発表
更新
【イラン制裁解除】イラン、「宿敵」米との合意で外交的勝利 中東情勢は一段と複雑化
産経ニュース、
週内にもイラン制裁解除手続き 欧米など6カ国、核合意履行受け

米海軍船拿捕、10人を「公海上で解放」イラン声明
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イラン軍が米海軍船舶2隻を拿捕
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【サウジ・イラン断交】インドネシアが仲介へ 世界最多のイスラム教を抱える国家
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【イラン核合意】制裁解除「数日」とイラン大統領 EU代表は慎重
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【サウジ・イラン断交】アラブ連盟、イランの「内政干渉」非難も実質的封じ込め策に踏み込めず
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イランの「内政干渉」非難 アラブ各国、サウジに連帯

【イラン・サウジ断交】イラン、米に「報復」と警告 ビザ厳格化の動きに反発
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【イラン・サウジ断交】サウジ「イラン包囲網」目指す アラブ連盟が緊急会議
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【イラン・サウジ断交】サウジ「イランに追加措置検討」と警告 湾岸諸国には温度差
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【イラン・サウジ断交】イラン外相「空爆で職員2人死亡」国連に報告 3回続き、建物にも甚大被害?
【サウジ・イラン断交】イラン、サウジへ反攻 イエメンの大使館「襲撃」はより悪質と国際世論にアピール
イエメンから国連高官退去 「クラスター弾」指摘の報復か

【サウジ・イラン断交】サウジ主導の連合軍「イラン大使館近くで作戦行動せず」 イランと「空爆」主張対立 産経ニュース、
「空爆」、遠のく紛争解決 サウジ・イラン歩み寄り困難

【サウジ・イラン断交】サウジ軍がイラン大使館を空爆 イエメン首都で負傷者も

【サウジ・イラン断交】イラン外交団がサウジ退去 バーレーンも航空便停止

【サウジ・イラン断交】ホルムズ海峡封鎖に現実味 政府・与党は安保関連法視野に対応検討、野党は先見性のなさ露呈 産経ニュース、
【サウジ・イラン断交】説得に動く米…IS掃討に影、バランス外交に陰り?
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【サウジ・イラン断交】サウジ、保守的指導部が力誇示 副皇太子ら主導…“落としどころ”見えず 

【サウジ・イラン断交】自制に動く米露 イラン「遺憾の意」、サウジ「国際法違反だ」
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【サウジ・イラン断交】「イランは国際法違反」 サウジ国連大使が非難

【サウジ・イラン断交】イラン国連大使がサウジ大使館襲撃に「遺憾の意」 国連総長に書簡「再発防止措置とる」 トルコ副首相「中東は火薬樽」 産経ニュース、
【サウジ・イラン断交】サウジは国民のイラク渡航禁止に 商業関係も遮断
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【サウジ・イラン断交】米、仲介外交に乗り出す 「双方が中東情勢の緊張を緩和する必要ある」と報道官 産経ニュース、
ロシアが仲介に意欲 両外相を「モスクワに招く用意ある」

【サウジ・イラン断交】米国の影響力後退 中東の不安定化加速 新たな紛争懸念

【サウジ・イラン断交】バーレーンもイランと断交 隣国サウジに同調 スンニ派の王家
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【サウジ・イラン断交】シリアめぐり利害激突 石油依存の日本にもリスク
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【サウジ・シーア派処刑】ニムル師とはどんな人? イラン革命防衛隊と密接関係
産経ニュース、
サウジ、イランと国交断絶

【サウジ・シーア派処刑】米政権、宗派対立を懸念 IS掃討作戦に影響も
産経ニュース、
【サウジ・シーア派処刑】バーレーンやイラクにも抗議デモ拡大 スンニ派との宗派対立深まる

イランのサウジ領事館前で群衆暴徒化 シーア派指導者ら処刑に抗議 イランは「重い代償を」と非難
サウジ処刑に懸念と米国務省 「宗派間の緊張が高まる危険性」

サウジが「テロ関与」と47人処刑  シーア派高位聖職者も




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改訂履歴
※2016.2.24、タイトル変更、「・・・重要記事抜粋」 >> 「・・・重要記事リンク」
※2016.2.24、引用文削除(リンクのみ残す)
※2016.1.30、記事追加
※2016.1.25、記事追加
※2016.1.23、記事追加
※2016.1.21、記事追加
※2016.1.18、記事追加
※2016.1.12、記事追加
※2016.1.9、記事追加
※2016.1.8、記事追加
※2016.1.6、記事追加
※2016.1.5、新規作成

【研究ノート】 イラン、国の概要


簡単まとめ

・国名: イラン・イスラム共和国、通称イラン
…イラン人自身は古くから「イラン」と呼んできた
 (イランは「アーリア人の国」を意味する)
…西洋では古代より「ペルシア」として知られていた
 (ファールス州の古名「パールス」にちなむ)
…1979年、イラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用い、国名はイランと定められた



・イラン・イスラーム共和国の歴史
…シャーの独裁的統治は1979年のイラン・イスラーム革命に繋がり、パフラヴィー朝の帝政が倒れた。代わって、アーヤトッラー・ホメイニーの下でイスラム共和制を採用するイラン・イスラーム共和国が樹立された。
…打倒したシャーへの支持に対する反感により、対外的には反欧米的姿勢を持つ
 (1953年 - 1978年のパフラヴィー政権時代は、事実上、アメリカの傀儡)
…特に対米関係は、以下によって非常に緊張したものとなった
 1979年のアメリカ大使館人質事件
 革命の輸出政策
 レバノンのヒズボッラー(ヒズボラ)、並びに、パレスチナのハマースなどへの支援
 (イスラエル打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援)
…革命による混乱が続く1980年、イラン・イラク戦争が勃発。1988年まで続いた。
 (隣国イラクのフセイン大統領がアルジェ合意を破棄してイラン南部フーゼスターン州に侵攻)
…2013年8月3日、保守穏健派のハサン・ロウハーニーが第7代大統領に就任



・国体: 立憲イスラーム共和制
…1979年以降の憲法(ガーヌーネ・アサースィー)の規定による
…政治制度的に複数の評議会的組織があり、複雑な関係をなしている



【以下、1989年修正憲法下での体制】

・最高指導者: 行政・司法・立法の三権の上に立つ
…「イラン・イスラーム共和国の全般的政策・方針の決定と監督について責任を負う」
 (憲法の規定による)
…単独の最高指導者が不在の場合は、複数の宗教指導者によって構成される合議体が最高指導者の職責を担う。
…軍の最高司令官
…諜報機関および治安機関を統轄
…宣戦布告の権限は最高指導者のみ
…最高指導者(または最高指導会議)は専門家会議が選出
…終身制で任期はない
…現在の最高指導者はアリー・ハーメネイー

・大統領: 執行機関たる行政府の長(信濃注:国家元首ではない)
…大統領は最高指導者の専権事項以外で、憲法に従って政策を執行
…任期は4年。再選は可能だが連続3選は禁止
…大統領選立候補者は、選挙運動以前に監督者評議会による承認が必要
 (法令によるもの)
…イランの場合、行政府は軍を統括しない

・議会(マジュレス): 立法府としての機能を持つ
…議会は「マジュレセ・シューラーイェ・エスラーミー」(イスラーム諮問評議会)という
…一院制、議員数は290人
…立法の他、条約の批准、国家予算の認可を行う。
…議会による立法のいずれにも、監督者評議会の承認が必要
…議員は任期4年、国民の直接選挙で選出
 (ただし、立候補の際には監督者評議会の承認が必要)
…日本語の報道では国会とも表記される。

・専門家会議: 最高指導者の選任と罷免
…「善良で博識な」86人のイスラーム知識人で構成
…専門家会議は国民の選挙によって選出
 (ただし、立候補の際には監督者評議会の承認が必要)
…1年に1回招集、会期は約1週間
…最高指導者を選出権、罷免権は憲法の規定による
 (ただし、これまで専門家会議が最高指導者に疑問を示したことはない)

・監督者評議会: 議会可決法案の憲法解釈
…12人の法学者から構成される
…半数を構成するイスラーム法学者6人を最高指導者が指名
…残り半数の一般法学者6人を最高司法権長が指名
…これを議会が公式に任命
…憲法解釈を行い、議会可決法案がシャリーア(イスラーム法)に適うものかを審議する
 (議会に対する拒否権を持つ機関と言える)
…日本の報道では護憲評議会と訳されるが、やや意味合いが異なる。

・公益判別会議: 最高指導者の諮問機関
…議会と監督者評議会で不一致があった場合の仲裁を行う
…国家の最も強力な機関の一つ

・司法府
…最高司法権長は最高指導者が任命
…一般法廷は通常の民事・刑事訴訟を扱う
…革命法廷は国家安全保障にかかわる問題を扱う
…イスラーム法学者特別法廷は法学者による犯罪を扱う
…イスラーム法学者特別法廷は通常の司法体制からは独立し、最高指導者に対して直接に責任を持つ

・国教: シーア派イスラームの十二イマーム派
…憲法の規定による
…他のイスラームの宗派には“完全なる尊重”(12条)が謳われている
…非ムスリムは、ゾロアスター教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒のみが公認された異教徒
 (一定の権利保障を受ける)
…シャリーアにおけるイスラームの絶対的優越の原則に基づき、憲法では宗教差別を容認
…バハーイー教徒や無神論者・不可知論者はその存在を認められておらず、信仰が露呈した場合は死刑もありうる

wikipedia-シャリーア
 シャリーアは、コーランと預言者ムハンマドの言行(スンナ)を法源とする法律。
 1000年以上の運用実績がある。ローマ法を起源としないイスラム世界独自のものである。イスラム法、イスラーム法、イスラーム聖法などとも呼ばれる。

・女性
…ヒジャーブを強制
…行動、性行為、恋愛などの自由も著しく制限
…革命以前に比べて職場への女性の進出は進んでおり、改善の兆しも見られる
…近年では、閣僚に女性が登用されるなど、女性の政治参加も進んでいる

・刑罰
…シャリーアに基づくハッド刑の中には、人体切断や石打ちなど残虐な刑罰が含まれる
…未成年者への死刑も行われている

【以上、1989年修正憲法下での体制】



・軍事
…国軍として、陸軍、海軍、空軍などから構成されるイラン・イスラム共和国軍を保有
…イスラム革命防衛隊(パースダーラーン省所属)
 (国軍とは別の準軍事組織)
…内務省法秩序警備軍(国家憲兵に相当)

・経済
…2013年のGDPは3,663億ドル(IMF統計)
 (大阪府とほぼ同じ経済規模)
…2013年の一人当たりのGDPは4,750ドル
…中央統制の国営イラン石油会社や国有大企業と、農村部の農業および小規模な商業、ベンチャーによるサービス業などの私有企業からなる混合経済
…OPEC第2位の石油生産国
…確認されている世界石油埋蔵量の10%を占める
…天然ガス埋蔵量でもロシアに続き世界第2位
…一連の旱魃による足踏み局面もあるが、農業は今だに最大の雇用を持つ部門
…バイオテクノロジーと医薬品製造などにも力を入れている
…主要貿易国はフランス、ドイツ、日本、イタリア、スペイン、ロシア、韓国、中国など
…1990年代後半からは、シリア、インド、キューバ、ベネズエラ、南アフリカなど、発展途上国との経済協力も進めている
…域内でもトルコとパキスタンとの通商を拡大、西アジア、中央アジアの市場統合ビジョンを共有

・人口
…20世紀後半に劇的に増加、2006年には7000万人に達した
…2005年現在、イランは約100万人の外国難民(主にアフガニスタン難民、ついでイラク難民)を受け入れており、世界で最も難民が多い国の一つ
…政府の政策的要因、並びに、社会的要因により、イランは難民たちの本国帰還を目指す
…イラン・イスラーム革命後に海外移住した人々が、北アメリカ(イラン系アメリカ人、イラン系カナダ人)、西ヨーロッパ(在イギリスイラン人)、南アメリカ、日本(在日イラン人)などに約200万~300万人程度存在すると見積もられる。

・民族
…使用言語と密接な関係にあり、次いで宗教が重要
 (分類は何語を話す何教徒か、に依存する部分が大きい)
…公用語はインド・ヨーロッパ語族イラン語群のペルシア語
 (人口の約半数が母語とする)
…チュルク系のアゼルバイジャン語を母語とする人も多く、人口の四分の一に上る
…ペルシア語以外のイラン語群の諸語やその他の言語を話す人々もいる
…ペルシア人(ペルシア語を語る人びと: 51%)
…アゼルバイジャン人(アゼルバイジャン語を語る人びと: 25%)
…ギーラキーおよびマーザンダラーニー(ギーラキー語、マーザンダラーニー語を語る人びと: 8%)
…クルド人(7%)
…アラブ人(4%)
…バローチ(2%)
…ロル(2%)
…トルクメン(2%)
…ガシュガーイー、アルメニア人、グルジア人、ユダヤ人、アッシリア人、タリシュ人、タート人、その他(1%)

【おやこ新聞】まめちしき イランってどんな国?
更新
Q 宗教や民族は?
A 国民のほとんどがイスラム教のシーア派だよ。中東は多くがスンニ派の国で、イランは中東でも孤立していった。とくにスンニ派の大国、サウジアラビアとの対立は激しくなっている。サウジアラビアがアラブ民族なのに対し、イランはペルシャ民族で言語もペルシャ語を使っているんだ。

・宗教: 大部分のイラン人はムスリム
…90%がシーア派十二イマーム派(国教)
…9%がスンナ派(多くがトルクメン人、クルド人とアラブ人)
…非ムスリムの宗教的マイノリティもおり、主なものにバハーイー教、ゾロアスター教(サーサーン朝時代の国教)、ユダヤ教、キリスト教諸派などがある
…バハーイー教を除く3宗教は建前としては公認されている
 (憲法第64条に従い、議会に宗教少数派議席を確保)
…公認された宗教であれ、イスラム教徒として生まれたものがそれらの宗教に改宗することは出来ず、発覚した場合死刑となる
…バハーイー教(イラン最大の宗教的マイノリティー)は、非公認で迫害の歴史がある

・教育
…識字率は79.1%、女性の非識字率は27.4%に達する(国連統計)
…15歳以上の識字率は77%(男性:83.5%、女性:70.4%、2002年推計)
…15歳以上の識字率は85%(世銀2008年発表)

・スポーツ
…国技はレスリング、強豪国として知られる
…サッカーが盛ん、イラン代表はアジアの強豪として知られる

・通信とメディア
…現在の放送メディアは国営のイラン・イスラム共和国放送(IRIB)に一元化
…新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在
…全メディアが当局による直接・間接の支配を受ける
 (文化イスラーム指導省の承認が必要)
…インターネットも例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位のブロガー人口を持つ。
…海外メディアの国内取材も制限





以下、添付資料

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wikipedia-イラン

 イラン・イスラム共和国、通称イランは、西アジア・中東のイスラム共和制国家。ペルシア、ペルシャともいう。
 北にアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタン、東にパキスタン、アフガニスタン、西にトルコ、イラクと境を接する。また、ペルシア湾をはさんでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。
 首都はテヘラン。
 1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。
 世界有数の石油の産出地でもある。





国名

詳細は「イランの国名(英語版)」を参照

 イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、西洋では古代よりファールス州の古名「パールス」にちなみ「ペルシア」として知られていた。
 1935年3月21日、レザー・シャーは諸外国に公式文書に本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められたものの混乱が見られ、1959年、研究者らの主張によりモハンマド・レザー・シャーがイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。
 その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。
 公式の英語表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。日本語の表記は「イラン・イスラム共和国」、通称イランであり、漢字表記では「伊蘭」とも当てた。





歴史

イラン・イスラーム共和国

 シャーの独裁的統治は1979年のイラン・イスラーム革命に繋がり、パフラヴィー朝の帝政は倒れ、新たにアーヤトッラー・ホメイニーの下でイスラム共和制を採用するイラン・イスラーム共和国が樹立された。
 新たなイスラーム政治制度は、先例のないウラマー(イスラーム法学者)による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われた。これはペレティエ『クルド民族』に拠れば同性愛者を含む性的少数者や非イスラーム教徒への迫害を含むものだった。
 また打倒したシャーへの支持に対する反感により対外的には反欧米的姿勢を持ち、特に対アメリカ関係では、1979年のアメリカ大使館人質事件、革命の輸出政策、レバノンのヒズボッラー(ヒズボラ)、パレスチナのハマースなどのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって、非常に緊張したものとなった。
 革命による混乱が続く1980年には隣国イラクのサッダーム・フセイン大統領がアルジェ合意を破棄してイラン南部のフーゼスターン州に侵攻し、イラン・イラク戦争が勃発した。この破壊的な戦争はイラン・コントラ事件などの国際社会の意向を巻き込みつつ、1988年まで続いた。
 国政上の改革派と保守派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補マフムード・アフマディーネジャードが勝利した2005年の大統領選挙でもこの点が欧米メディアに注目された。
 2013年6月に実施されたイラン大統領選挙では、保守穏健派のハサン・ロウハーニーが勝利し、2013年8月3日に第7代イラン・イスラーム共和国大統領に就任した。





政治

詳細は「イランの政治」を参照

 イランの政体は1979年以降の憲法(ガーヌーネ・アサースィー)の規定による立憲イスラーム共和制である。
 政治制度的に複数の評議会的組織があって複雑な関係をなしている。これらの評議会は、民主主義的に選挙によって選出される議員で構成されるもの、宗教的立場によって選出されるもの、あるいは両者から構成されるものもある。以下で説明するのは1989年修正憲法下での体制である。



最高指導者

 ヴェラーヤテ・ファギーフ(法学者の統治)の概念はイランの政治体制を構成する上で重要な概念となっている。
 憲法の規定によると、最高指導者は「イラン・イスラーム共和国の全般的政策・方針の決定と監督について責任を負う」とされる。単独の最高指導者が不在の場合は複数の宗教指導者によって構成される合議体が最高指導者の職責を担う。
 最高指導者は行政・司法・立法の三権の上に立ち、最高指導者は軍の最高司令官であり、イスラーム共和国の諜報機関および治安機関を統轄する。宣戦布告の権限は最高指導者のみに与えられる。ほかに最高司法権長、国営ラジオ・テレビ局総裁、イスラーム革命防衛隊総司令官の任免権をもち、監督者評議会を構成する12人の議員のうち6人を指名する権限がある。
 最高指導者(または最高指導会議)は、その法学上の資格と社会から受ける尊敬の念の度合いによって、専門家会議が選出する。終身制で任期はない。
 現在の最高指導者はアリー・ハーメネイー。



大統領

 大統領は最高指導者の専権事項以外で、執行機関たる行政府の長として憲法に従って政策を執行する。(信濃注:イランでは、大統領が国家元首ではない)
 法令により大統領選立候補者は選挙運動以前に監督者評議会による審査と承認が必要で、国民による直接普通選挙の結果、絶対多数票を集めた者が大統領に選出される。任期は4年。再選は可能だが連続3選は禁止されている。
 大統領は就任後閣僚を指名し、閣議を主宰し行政を監督、政策を調整して議会に法案を提出する。大統領および8人の副大統領と21人の閣僚で閣僚評議会(閣議)が形成される。副大統領、大臣は就任に当たって議会の承認が必要である。
 首相職は1989年の憲法改正により廃止された。
 またイランの場合、行政府は軍を統括しない。



議会(マジュレス)

 議会は「マジュレセ・シューラーイェ・エスラーミー」(イスラーム諮問評議会)といい、一院制である。
 立法府としての権能を持ち、立法のほか、条約の批准、国家予算の認可を行う。
 議員は任期4年で290人からなり、国民の直接選挙によって選出される。議会への立候補にあたっては監督者評議会による審査が行われ、承認がなければ立候補リストに掲載されない。
 この審査は“改革派”に特に厳しく、例えば2008年3月の選挙においては7600人が立候補を届け出たが、事前審査で約2200人が失格となった。その多くがハータミー元大統領に近い改革派であったことから、議会が本当に民意を反映しているのか疑問視する声もある[31]。
 また、議会による立法のいずれについても監督者評議会の承認を必要とする。
 日本語の報道では国会とも表記される。



専門家会議

 専門家会議は国民の選挙によって選出される「善良で博識な」86人のイスラーム知識人から構成される。1年に1回招集され会期は約1週間。選挙の際は大統領選、議会選と同じく、立候補者は監督者評議会の審査と承認を受けなければならない。
 専門家会議は最高指導者を選出する権限を持つ。これまで専門家会議が最高指導者に対して疑問を呈示したことはないが、憲法の規定上、専門家会議は最高指導者の罷免権限も持つ。



監督者評議会

 監督者評議会は12人の法学者から構成され、半数を構成するイスラーム法学者6人を最高指導者が指名し、残り半数の一般法学者6人を最高司法権長が指名する。これを議会が公式に任命する。
 監督者評議会は憲法解釈を行い、議会可決法案がシャリーア(イスラーム法)に適うものかを審議する権限をもつ。したがって議会に対する拒否権をもつ機関であるといえよう。
 議会可決法案が審議によって憲法あるいはシャリーアに反すると判断された場合、法案は議会に差し戻されて再審議される。
 日本の報道では護憲評議会と訳されるが、やや意味合いが異なる。



公益判別会議

 公益判別会議は議会と監督者評議会のあいだで不一致があった場合の仲裁をおこなう権限を持つ。
 また最高指導者の諮問機関としての役割を持ち、国家において最も強力な機関の一つである。



司法府

 最高司法権長は最高指導者によって任じられ、最高裁判所長官および検事総長を任じる。
 一般法廷が、通常の民事・刑事訴訟を扱い、国家安全保障にかかわる問題については革命法廷が扱う。革命法廷の判決は確定判決で上訴できない。
 またイスラーム法学者特別法廷は法学者による犯罪を扱うが、事件に一般人が関与した場合の裁判もこちらで取り扱われる。イスラーム法学者特別法廷は通常の司法体制からは独立し、最高指導者に対して直接に責任を持つ。同法廷の判決も最終的なもので上訴できない。



人権問題

詳細は「イラン・イスラーム共和国における人権」、「イランにおける信教の自由」、および「イランにおける同性愛者迫害」を参照

 1979年のイラン・イスラーム革命後、シャリーアに基づく政治体制が導入されたこともあり、同性愛者・非ムスリムの人権状況は大きく低下した。
 憲法では公式にシーア派イスラームの十二イマーム派を国教としており、他のイスラームの宗派に対しては“完全なる尊重”(12条)が謳われている。
 一方、非ムスリムに関しては、ゾロアスター教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒のみが公認された異教徒として一定の権利保障を受けているが、シャリーアにおけるイスラームの絶対的優越の原則に基づき、憲法では宗教による差別は容認されている。バハーイー教徒や無神論者・不可知論者はその存在を認められておらず、信仰が露呈した場合は死刑もありうる。

wikipedia-シャリーア
 シャリーアは、コーランと預言者ムハンマドの言行(スンナ)を法源とする法律。
 1000年以上の運用実績がある。ローマ法を起源としないイスラム世界独自のものである。イスラム法、イスラーム法、イスラーム聖法などとも呼ばれる。

 また非ムスリム男性がムスリム女性と婚外交渉を行った場合は死刑なのに対し、ムスリム男性が同様の行為を行った場合は「鞭打ち百回」であるなど、刑法にも差別規定が存在する。イスラームからの離脱も禁止であり、死刑に処される。2004年にはレイプ被害を受けた16歳の少女が死刑(絞首刑)に処された(ちなみに加害者は鞭打ちの刑で済んだ)。
 女性に対してはヒジャーブが強制されており、行動、性行為、恋愛などの自由も著しく制限されている(白色革命時には着用することが禁止された為、抗議として着用する女性達が増えた)。ただし革命以前に比べて職場への女性の進出は進んでおり、改善の兆しも見られる。近年では、閣僚に女性が登用されるなど、女性の政治参加も進んでいる。
 同性愛者に対しては、共和国憲法で正式に「ソドミー罪」を設けており、発覚した場合死刑である。
 刑罰においても、シャリーアに基づくハッド刑の中には人体切断や石打ちなど残虐な刑罰が含まれており、また未成年者への死刑も行われている。
 イランにおけるこれらの状況は、世界の多数の国の議会・政府、国際機関、NGOや、隣国イラク国民からも人権侵害を指摘され、人権侵害の解消を求められている。





軍事

詳細は「イラン・イスラム共和国軍」を参照

 国軍として、陸軍、海軍、空軍などから構成されるイラン・イスラム共和国軍を保有している。
 イランは核拡散防止条約(NPT)に加盟しているが、国際社会からイランの核開発問題が問題視されている。

準軍事組織

詳細は「イスラム革命防衛隊」を参照

 また、国軍とは別に、パースダーラーン省に所属する2つの準軍事組織保有している。
 1979年にイスラム革命の指導者ホメイニー師の命で設立された、志願民兵によって構成されている準軍事組織「バスィージ(人民後備軍)」が存在している。設立時には2,000万人の若者(男女別々)で編成された。この数字は国民の27%超である。

内務省法秩序警備軍:国家憲兵に相当。

イスラム革命防衛隊(パースダーラーン)
…ゴドス軍(英語版)(Quds Force)
…バスィージ(Basij):民兵部隊





国際関係

詳細は「イランの国際関係」を参照

イラン政府の対外政策の基本

 2009年現在のイラン政府の対外政策の基本的な思想は、全ての国家、国民との公正かつ相互的な関係構築をすることである[32]。



日本との政策

「日本とイランの関係」も参照



ロシアとの政策

「イランとロシアの関係」も参照



北朝鮮との関係

「イランと北朝鮮の関係」も参照



イランに対するアメリカ合衆国の政策

「アメリカ合衆国とイランの関係」も参照

 1953年 - 1978年のパフラヴィー政権時代は政権が事実上アメリカの傀儡であったため、アメリカとの関係は質量ともに重大だった。
 1979年4月のイスラム革命時に、革命政権がアメリカ政府に対して、パフラヴィー政権時代の不平等な関係を平等互恵の関係に変更し、パフラヴィーが私物化した財産をイランに返還し、パフラヴィー元皇帝の身柄をイランに引き渡すことを要求したが、カーター大統領はその要求を拒否して、イランの在米資産を接収した。
 革命運動勢力はアメリカ政府の姿勢に対する反発で、1979年11月にアメリカ大使館を占拠し大使館員を人質にアメリカ政府に対する要求を継続した。
 カーター大統領は1980年4月にイランに対する国交断絶と経済制裁を実施した[33]。イスラム革命時以後の歴代のアメリカ議会・政府は、イランを反米国家と認識し、イランに対する国交断絶・経済制裁・敵視政策を継続している。
 アメリカ政府は1984年にレーガン大統領がイランをテロ支援国家と指定し、2008年現在まで指定を継続している[34]。
 アメリカ政府は1995年にクリントン大統領が、アメリカ企業に対してイランとの貿易・投資・金融の禁止措置を実施した。アメリカ議会は1996年にイランとリビアの石油・ガス資源を開発する企業を制裁するイラン・リビア制裁法[35]を可決してクリントン大統領が署名して成立し、アメリカ議会は2001年と2006年にも制裁期間を延長する法案を可決し、ブッシュ大統領が署名して成立し、イランに対する制裁を継続中(リビアとは関係を修復し制裁は解除した)である。ブッシュ大統領は2002年の年頭教書でイランを悪の枢軸と表現して批判した。
 アメリカやイスラエルや国民の大部分がキリスト教徒である国は、イスラエルの打倒を主張するヒズボッラーやハマースをイスラム過激派と認識し、イランがヒズボッラーやハマースを支援していると指摘している。
 2008年1月、ブッシュ大統領は、クウェート、バーレーン、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、エジプトを訪問して、訪問諸国の政府に対して、イランをテロ支援国家と認識して、国際的なイラン包囲網への参加・協力を要請したが、いずれの訪問国の政府もイランとの友好関係の形成を推進中であり、ブッシュ大統領の要請に対して、いずれの訪問国の政府からも賛同・協力は得られなかった。
 2009年のイランの反アフマディーネジャード派の大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していたことが知られているが、イラン情報省海外担当次官は、大統領選挙後のデモの発生にアメリカとヨーロッパの財団・機関が関与していた事実があったとして「ソフトな戦争」(実際的な戦争などでない、内政干渉など)を仕掛ける60の欧米団体の実名をイランのメディアに対して公表し[36]、アメリカ政府もイランの体制を壊す目的で工作していたと発表した(詳しくは「アメリカ合衆国とイランの関係」を参照)。
 日本の新聞でもアメリカ政府がイランの体制の根幹にゆさぶりをかける、という内容の記事が掲載されたことがあり、米Newsweek誌2010年2月3日号でもアメリカ政府関係者がこの頃のデモに関して、イランへの内政干渉を完全に肯定し、西欧化を押し付けようとする覇権主義的な発言をしている。
 2010年2月の革命31周年の際には、数千万人の体制派の国民が行進に参加したとされ [37](イランの国営プレステレビでもこのことが伝えられた) 、 長年に渡る外国の干渉(内政干渉と国際的な干渉)に今年も我々は勝利し、革命を守りぬいたと最高指導者ハーメネイ師が述べている[38]。



アメリカ合衆国に対するイランの主張

 イラン政府はイスラム革命時から1989年にホメイニー師が死去するまではアメリカに対して強硬な姿勢だったが、その後は、アリー・ハーメネイー師、ハーシェミー・ラフサンジャーニー大統領、モハンマド・ハータミー大統領、マフムード・アフマディーネジャード大統領などが、アメリカがイランに対する敵視政策を止め、アメリカもイランも互いに相手国を理解し、相手国の立場を尊重し、平等互恵の関係を追求する政策に転換するなら、イランはいつでもアメリカとの関係を修復すると表明している[39][40][41][42]。
 ラフサンジャーニー大統領は1996年のアトランタオリンピックに選手を派遣した。ハータミー大統領は文明の対話を提唱し、2001年9月11日のアメリカに対する武力行使を非難し、被害を受けた人々に哀悼を表明した。アフマディーネジャード大統領はイラク国民が選挙で選出した議会と政府の樹立後の、イラクの治安の回復に協力すると表明している[43][44]。



核開発問題についてのイランと第三世界各国の認識

詳細は「イランの核開発問題」を参照

 イラン政府は自国のこの事柄について、核エネルギーの生産を目指すもので、核兵器開発ではないと今までに一貫して表明してきており、アフマディネジャド大統領は「核爆弾は持ってはならないものだ」とアメリカのメディアに対して明言している(Newsweek誌2009年10月7日号)。
 欧米のイランの核エネルギー開発は認められない、という論理は決して世界共通のものではない。新興国のトルコやブラジル、また、ベネズエラ、キューバ、エジプト、その他の非同盟諸国は「核エネルギーの開発はイランの権利である」というイランの立場に理解を示し、当然であるとして支持している。
 2009年10月27日のアフマディーネジャード大統領との会談の中で、エルドアン首相はイランの核(エネルギー)保有の権利があると強調し、「地球上で非核の呼びかけを行う者はまず最初に自分の国から始めるべきだ」と述べた[45]。また、ブラジルのルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領はNewsweek誌2009年10月21号でイランのウラン濃縮の権利を支持していることが報じられており、ベネズエラのチャベス大統領は2006年7月のアフリカ連合(AU)首脳会議に招かれた際イランの核開発について「平和利用のための核技術を発展させる権利がイランにないというのか。明らかにある」と断言している[46]。
 非同盟諸国は2006年9月の首脳会議でイランによる平和利用目的の核開発の権利を確認する宣言等を採択し[47]、会議の議長国キューバやエジプトもこれを支持している。



欧米での反イスラーム的行為に対するイランの立場、見解

「国際クルアーン焼却日」も参照

 2010年9月のイスラーム聖典『クルアーン』焼却事件はアメリカ・フロリダ州のキリスト教会の牧師が、同時多発テロ事件の9周年にあたる2010年9月11日を「国際クルアーン焼却デー」とし、『クルアーン』を焼却する計画を発表したことに始まる事件だが、ムスリム・非ムスリムを超えた広範な反発と国際世論の圧力を受けて中止された。
 しかし、この呼びかけに応えたようにアメリカ国民の一部が数冊の『クルアーン』を燃やし、ワシントンD.C.で警官に護衛されるなかで、またニューヨークの世界貿易センタービルの跡地で数十冊の『クルアーン』を破り、それに火をつけた。これらの行為に対して、全世界で大規模な抗議運動が巻き起こった[48]。
 聖地イェルサレムでも同時期に似たような反イスラーム的行為が行われた[49]。
 このような事件に対して最高指導者アリー・ハーメネイーはメッセージのなかで、イスラーム教徒とキリスト教徒を対立させることが、この事件の真の首謀者の望みであるとし、「キリスト教会やキリスト教とは関係がなく、数名の雇われた人間の行動を、キリスト教徒全体のものと考えるべきではない」、「我々イスラーム教徒が、他の宗教の神聖に対して同じような行動に出ることはない。クルアーンが我々に教える事柄は、その対極にある」と表明した。
 そして、この事件の真の計画、指示者について「アフガニスタン、イラク、パレスチナ、レバノン、パキスタンで、犯罪行為を伴ってきた、一連の流れを分析すれば、アメリカの政府と軍事・治安機構、イギリス政府、その他一部のヨーロッパ政府に最大の影響力を持つ、“シオニストの頭脳集団”であることに疑いの余地は残らない」、「(今回の事件は)この国の警察に守られる中で行われたものであり、何年も前から、(欧米での)イスラム恐怖症やイスラム排斥といった政策に取り組んできた(シオニスト頭脳集団)組織による計画的な行動であった」と述べ、今回のクルアーン焼却事件とそれ以前の欧米でのイスラーム恐怖症やイスラーム排斥の政策を主謀したのはこのシオニスト集団だとした。
 また、「このようなイスラムへの一連の敵対は、西側におけるイスラムの影響力が、いつにも増して高まっていることに起因する」とした。さらに同メッセージでアメリカ政府に対し、「この陰謀に関与していないとする自らの主張を証明するために、この大きな犯罪の真の実行者をふさわしい形で処罰すべきだ」と強調した[50]。
 この事件に対し、インド領カシミール、アフガニスタンでも抗議デモが行われ、イランでは抗議のために多くの都市のバザールが9月15日を休業とした[51]。



悪魔の詩事件

 元ムスリム(イスラーム教徒)のサルマン・ラシュディが書いた1989年出版の『悪魔の詩』はイスラームの預言者ムハンマドについて扱っているが、その内容と、この人物が元ムスリムであったことから発表の後、各国のムスリムの大きな非難と反発を招いた。
 1991年7月に起きた日本の茨城県つくば市内で筑波大学助教授が何者かによって殺された事件(未解決)は、これを訳して出版したことが原因ではないかと考えられている。

詳細は悪魔の詩を参照。





地理

詳細は「イランの地理(英語版)」を参照


 イランは北西にアゼルバイジャン(国境線の長さは432km。以下同様)、アルメニア(35km)と国境を接する。北にはカスピ海にのぞみ、北東にはトルクメニスタン(992km)がある。東にはパキスタン(909km)とアフガニスタン(936km)、西にはトルコ(499km)とイラク(1,458km)と接し、南にはペルシア湾とオマーン湾が広がる。
 面積は1,648,000km²で、うち陸地面積が1,636,000 km²、水面積が12,000 km²であり、ほぼアラスカの面積に相当する。
 イランの景観では無骨な山々が卓越し、これらの山々が盆地や台地を互いに切り離している。
 イラン西半部はイランでも人口稠密であるが、この地域は特に山がちでザーグロス山脈やイランの最高峰ダマーヴァンド山(標高5,604m)を含むアルボルズ山脈がある。一方、イランの東半は塩分を含むキャビール砂漠のような無人に近い砂漠地帯が広がり、塩湖が点在する。
 平野部はごくわずかで、大きなものはカスピ海沿岸平野とアルヴァンド川(シャットゥルアラブ川)河口部にあたるペルシア湾北端の平野だけである。その他小規模な平野部はペルシア湾、ホルムズ海峡、オマーン湾の沿岸部に点在する。
 イランは、いわゆる「人類揺籃の地」を構成する15か国のうちの1つと考えられている。



気候

 全般的には大陸性気候で標高が高いため寒暖の差が激しい。特に冬季はペルシャ湾沿岸部やオマーン湾沿岸部を除くとほぼ全域で寒さが厳しい。
 国土の大部分が砂漠気候あるいはステップ気候であるが、ラシュトに代表されるイラン北端部(カスピ海沿岸平野)は温暖湿潤気候に属し、冬季の気温は0℃前後まで下がるが、年間を通じて湿潤な気候であり、夏も29℃を上回ることは稀である。
 年間降水量は同平野東部で680mm、西部で1700mm以上となる。
 テヘランなどの内陸高地はステップ気候から砂漠気候に属し、冬季は寒く、最低気温は氷点下10度前後まで下がることもあり降雪もある。一方、夏季は乾燥していて暑く日中の気温は40度近くになる。
 ハマダーン、アルダビールやタブリーズなどのあるイラン西部の高地は、ステップ気候から亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、山岳地帯では豪雪となり厳しい季節となる。特に標高1,850mに位置するハマダーンでは最低気温が-30度に達することもある。
 イラン東部の中央盆地は乾燥しており、年間降水量は200mmに満たず、砂漠が広がる砂漠気候となる。特にパキスタンに近い南東部砂漠地帯の夏の平均気温は38℃にも達する酷暑地帯となる。
 ペルシア湾、オマーン湾沿岸のイラン南部では、冬は穏やかで、夏には温度・湿度ともに非常に高くなり平均気温は35℃前後と酷暑となる。年間降水量は135mmから355mmほどである。





経済

詳細は「イランの経済」を参照

 IMFの統計によると、2013年のGDPは3,663億ドルであり[1]、大阪府とほぼ同じ経済規模である[52]。同年の一人当たりのGDPは4,750ドルである[1]。
 イランの経済は中央統制の国営イラン石油会社や国有大企業と、農村部の農業および小規模な商業、ベンチャーによるサービス業などの私有企業からなる混合経済である。
 政府は以前から引き続いて市場化改革を行い、石油に依存するイラン経済の多角化を図っており、収益を自動車産業、航空宇宙産業、家電製造業、石油化学工業、核技術など他の部門に振り分け投資している。チャーバハール自由貿易地域、キーシュ島自由貿易地域の設定などを通して投資環境の整備に努め、数億ドル単位での外国からの投資を呼び込むことを目指している。
 現代イランの中産階級の層は厚く堅実で経済は成長を続けているが、一方で高インフレ、高失業率が問題である。インフレ率は2007年度の平均で18.4%、2008年4月(イラン暦)には24.2%にまで達している。
 財政赤字は慢性的問題で、これは食品、ガソリンなどを中心とする年総計約72億5000万ドルにものぼる莫大な政府補助金が原因の一つとなっている。これに対してアフマディーネジャード政権は、2010年からガソリンや食料品などに対する補助金の段階的削減に踏み切り、低所得層に対しては現金給付に切り替えている[53]。
 イランはOPEC第2位の石油生産国で、確認されている世界石油埋蔵量の10%を占める。また天然ガス埋蔵量でもロシアに続き世界第2位である。1996年の非常に堅調な原油価格は、イランの財政赤字を補完し、債務元利未払金の償還に充てられた。
 農業については国家投資、生産自由化による活発化が目指され、外国に対する売り込み、マーケティングなどで輸出市場を開発し、全般的に改善された。ナツメヤシ、ピスタチオ、花卉など輸出用農業生産物の拡大、大規模灌漑計画により1990年代のイラン農業は、経済諸部門のなかでも最も早い成長のあった分野である。一連の旱魃による踏み足局面もあるが、農業はいまだにイランで最大の雇用を持つ部門である。
 イランはバイオテクノロジーと医薬品製造などにも力を入れている。
 主要貿易国はフランス、ドイツ、日本、イタリア、スペイン、ロシア、韓国、中国などである。1990年代後半からはシリア、インド、キューバ、ベネズエラ、南アフリカなど発展途上国との経済協力も進めている。また域内でもトルコとパキスタンとの通商を拡大させており、西アジア、中央アジアの市場統合のビジョンを共有している。





人口統計

詳細は「イランの人口統計(英語版)」を参照

人口

 イランの人口は20世紀後半に劇的に増加し、2006年には7000万人に達した。
 しかし多くの研究では21世紀への世紀転換点には、人口増加率の抑制に成功し、ほぼ人口補充水準に到達した後、2050年頃に約1億人で安定するまで人口増加率は徐々に低下してゆくものと考えられている。
 人口密度は1平方キロメートルにつき約40人である。
 イランには2005年現在、イランは約100万人の外国難民(主にアフガニスタン難民、ついでイラク難民)を受け入れており、世界で最も難民が多い国の一つである。
 政府の政策的および社会的要因により、イランは難民たちの本国帰還を目指している。
 逆にイラン・イスラーム革命後に海外に移住した人々(en:Iranian diaspora)が北アメリカ(イラン系アメリカ人、en:Iranian Americanやイラン系カナダ人、en:Iranian Canadian)、西ヨーロッパ(在イギリスイラン人、en:Iranians in the United Kingdom)、南アメリカ、日本(在日イラン人)などに約200万から300万人程度存在すると見積もられる。



民族

詳細は「イランの民族(英語版)」を参照

 イランの民族はその使用言語と密接な関係にあり、次いで宗教が重要である。すなわちエスニック・グループの分類は何語を話す何教徒か、に依存する部分が大きい。
 イランの公用語はインド・ヨーロッパ語族イラン語群のペルシア語で人口の約半数はこれを母語とするが、チュルク系のアゼルバイジャン語を母語とする人も非常に多く人口の四分の一にのぼり、さらにペルシア語以外のイラン語群の諸語やその他の言語を話す人びともいる。
 先述のように、それぞれの民族の定義や範囲、あるいはその人口や全体に占める割合に関してはさまざまな議論があるが、イランに住むエスニック・グループは主に次のようなものである。
 ペルシア人(ペルシア語を語る人びと: 51%)、アゼルバイジャン人(アゼルバイジャン語を語る人びと: 25%)、ギーラキー(英語版)およびマーザンダラーニー(英語版)(ギーラキー語、マーザンダラーニー語を語る人びと: 8%)、クルド人(7%)、アラブ人(4%)、バローチ(2%)、ロル(2%)、トルクメン(2%)、ガシュガーイー、アルメニア人、グルジア人、ユダヤ人、アッシリア人、タリシュ人(英語版)、タート人(英語版)、その他(1%)である。
 しかし以上の数字は一つの見積もりであって、公式の民族の人口・割合に関する統計は存在しない。
 国連の統計によると、イランにおける識字率は79.1%であり、女性の非識字率は27.4%に達する。



言語

詳細は「イランの言語(英語版)」を参照

 主要な言語は、ペルシア語、アゼルバイジャン語(南アゼルバイジャン語)、クルド語(ソラニー、クルマンジー、南部クルド語、ラーク語)、ロル語(北ロル語、バフティヤーリー語、南ロル語)、ギラキ語、マーザンダラーン語、バローチー語、アラビア語(アラビア語イラク方言、アラビア語湾岸方言)、トルクメン語、ドマーリー語(または、ドマリ語)、ガシュガーイー語、タリシュ語である。



宗教

詳細は「イランの宗教(英語版)」を参照

 大部分のイラン人はムスリムであり、その90%がシーア派十二イマーム派(国教)、9%がスンナ派(多くがトルクメン人、クルド人とアラブ人)である(詳細はイランのイスラームを参照)。
 ほかに非ムスリムの宗教的マイノリティがおり、主なものにバハーイー教、ゾロアスター教(サーサーン朝時代の国教)、ユダヤ教、キリスト教諸派などがある。
 このうちバハーイーを除く3宗教は建前としては公認されており、憲法第64条に従い議会に宗教少数派議席を確保され[54]、公式に『保護』されているなどかつての『ズィンミー』に相当する。
 これら三宗教の信者は極端な迫害[要出典]を受けることはないが、ヘイトスピーチやさまざまな社会的差別などを受けることもある。また、これら公認された宗教であれ、イスラム教徒として生まれたものがそれらの宗教に改宗することは出来ず、発覚した場合死刑となる。
 一方、バハーイー教(イラン最大の宗教的マイノリティー)は、非公認で迫害の歴史がある。
 バハーイー教は19世紀半ば十二イマーム派シャイヒー派を背景に出現したバーブ教の系譜を継ぐもので、1979年の革命後には処刑や高等教育を受ける権利を否定されるなど厳しく迫害[要出典]されている(これについてはバハーイー教の迫害およびイランの宗教的マイノリティー、イランにおける宗教的迫害を参照)。ホメイニー自身もたびたび、バハーイー教を『邪教』と断じて禁教令を擁護していた。
 歴史的にはマニによるマニ教もイラン起源とも言える。またマズダク教は弾圧されて姿を消した。



教育

詳細は「イランの教育(英語版)」を参照

 2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は77%(男性:83.5%、女性:70.4%)であり[55]、世銀発表の2008年における15歳以上の識字率は85%となっている[56]。
 2006年にはGDPの5.1%が教育に支出された[55]。
 主な高等教育機関としては、テヘラン大学(1934)、アミール・キャビール工科大学(1958)、アルザフラー大学(1964)、イスラーム自由大学(1982)、シャリーフ工科大学(英語版)などの名が挙げられる。





文化

詳細は「イランの文化(英語版)」および「イランの芸術」を参照

 イランは文化、すなわち美術、音楽、建築、詩、哲学、思想、伝承などの長い歴史があり、イラン文明が数千年の歴史の波乱を乗り越えて今日まで連綿として続いてきたことは、まさしくイラン文化の賜物であった、と多くのイラン人が考えている。





スポーツ

詳細は「イランのスポーツ(英語版)」を参照

 イランの国技はレスリングであり[57]、強豪国として知られる。2012年のロンドンオリンピックでは、金メダル3個を含む計6個のメダルを獲得した。
 イランではサッカーが盛んであり、イラン・サッカー協会は1920年に創設された。サッカーイラン代表はアジアの強豪として知られ、現在までに初出場となった1978年のアルゼンチン大会と、1998年のフランス大会、2006年のドイツ大会、2014年のブラジル大会と、4度のFIFAワールドカップに出場している。





通信とメディア

詳細は「イランのメディア(英語版)」を参照

 イランにおけるラジオの導入は1940年に設立されたテヘラン・ラジオに遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送のイラン・イスラム共和国放送(IRIB)に一元化されている。
 新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在し、朝刊紙で発行部数が多いのは『ハムシャフリー』であり、『イーラーン』、『ジャーメ・ジャム』、『アフバール』などが続き、夕刊紙で有力なのは『ケイハーン』、『エッテラーアート』などである。
 イランでは全メディアが当局による直接・間接の支配を受けており、文化イスラーム指導省の承認が必要である。インターネットも例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位のブロガー人口を持つ。
 また海外メディアの国内取材も制限されており、2010年にイギリスBBCの自動車番組トップ・ギアのスペシャル企画で、出演者とスタッフが入国しようとした際は、ニュース番組ではないにもかかわらずBBCという理由で拒否されたシーンが放送されている。





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改訂履歴
※2016.1.5、「簡単まとめ」追記(冒頭)
※2016.1.17、記事追加、「【おやこ新聞】まめちしき イランってどんな国? 更新」

【研究ノート】 サウジアラビア、国の概要


日本とは全く違う国柄
日本人の日常生活からは想像困難な世界
国内で王位継承権争いもある様子

でも一般のムスリムは真面目で敬虔な人達という印象がある



簡単まとめ

・国名: サウジアラビア
…「サウード家によるアラビアの王国」(アラビア語の国名)
…「統治王家の名前」を国名にする(国連加盟国でも非常に珍しい)

・国体: 絶対君主制、政教一致
…サウード家による絶対君主制
…ワッハーブ主義に基づく厳格なイスラム教義を国の根幹とする
…建国以来、長年にわたって不文憲法を貫いた
…ヒジュラ暦1412年シャアバーン27日(1993年3月1日)公布の統治基本法が憲法の役割
 (同時に、諮問評議会法や地方行政法も発布、近代法治国家の体裁が整えられる)
…政府は統治基本法が憲法であるとしているが、一方でその第1条に「憲法はクルアーンおよびスンナとする」と明記されており、実態はクルアーンこそが“憲法”。

wikipedia-クルアーン
クルアーンとはコーランのこと。
イスラーム教の聖典。

wikipedia-スンナ
スンナは字義通りには「踏み慣らされた道=慣行」。
主にイスラームにおける預言者ムハンマドの言行・範例(預言者のスンナ)を指す。
イスラーム法においてクルアーンに次ぐ第二の法源となっている。
シーア派における「スンナ」は、預言者ムハンマドおよび預言者を継いで人生あらゆる局面で人類を指導するとされている十二イマームの言行と、預言者やイマームの承認した行いを意味する。



・歴史: 現在のサウード国家(第三次サウード王国)
…1902年、僅か22歳のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王(サウジアラビア王国の初代国王)がサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回し、ナジュドで建国(ナジュド及びハッサ王国)
…ジッダ条約(1927年5月20日締結)で、英国はアブドゥルアズィーズの領域の独立を認め、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立
…1932年、主要地域のハサー、カティーフ、ナジュド、そしてヒジャーズが統一してサウジアラビア王国が成立
…1933年にサウジアラムコが設立され、1938年3月にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」が発見されるまで、国は貧しい状態
…油田開発は第二次世界大戦のために中断
…1946年、油田開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業
 (石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらし、国際社会での大きな影響力も与えた)
…1973年、第4次中東戦争で、サウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアを初めとする石油輸出国機構 (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。
…1979年、イラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者によるアル=ハラム・モスク占拠事件が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。
…1990年、イラクが隣国クウェートを侵略して湾岸危機が起こると、国土防衛のために米軍の駐留を許可。聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに対して、敬虔なイスラム教徒たちは反発し、後に同国人のウサーマ・ビン=ラーディンが反米テロを組織する原因ともなった。

・税制: ザカート税法
…統治基本法にザカート税(喜捨の義務)明記
 (税金のない国と言われることもあるが…実際には税金がある)
…徴税担当は「所得税およびザカート税省」
…サウジアラビア人にはザカート税、外国人には所得税
 (税率的にはほとんど変わらない)

・司法: コーランに基づくイスラム法(シャリーア)
…実際には、部族的慣習が社会的慣習となっているケースが多い
 (数々の矛盾を孕み、他のイスラム圏では見られない独特の環境を生む)
…法体系の近代化が進められ、現代では大幅に制度改革が実施されている
…裁判はアラビア語のみで行われる
 (被告がアラビア語を理解できなくても通訳なしで一方的に進められる)
…飲酒やポルノ類の持込などに対しては重刑
…イスラム思想に則り法整備
 (麻薬、強姦、殺人、同性愛は死刑、窃盗は手首切断、飲酒は鞭打ち刑などの身体刑)
…名誉殺人も存在しているとされ、認められれば罪に問われないことが多い

・警察: 通常の警察と宗教警察
…勧善懲悪委員会と呼ばれる宗教警察が厳しい取り締まり
 (違反者は外国人でも問答無用で逮捕)

・原則、男女は完全に区別
…女性による自動車運転の禁止(イスラムでは禁じられていない)
…公共の場所でのアバヤ(ベール)、ヒジャーブ(スカーフ)、ニカーブ(顔のベール)の着用
 (一般にサウジアラビアの習慣を語る際に用いられる特徴的なことでもある)

・男尊女卑
…結婚、就職、旅行など全ての行為に、女性は父またはその男兄弟(即ち、伯父または叔父)、夫などの「男性保護者」の許可が必要

・婚姻
…10歳前後での早婚も公認
 (ムハンマドの慣例に従い、9歳女子との結婚を認めるイスラーム法が存在するため)

・外交
…事実上、計画経済
…独立後、冷戦時を経て、米国や宗主国・英国などの西側諸国との関係が深い
…中東では最大の親米国家であり同盟関係を持つ
…西側諸国は、サウジアラビアの人権侵害等を表立って非難しない
…西側諸国は、常にサウジアラビアの姿勢を擁護
 (イラン、シリア等の反米国家に対する対応とは正反対)
…ユダヤ人国家であるイスラエルを承認していない
 (イスラム教国の盟主的な存在であるため)
…サウジアラビア、イスラエルともに、米英との関係が深く、表面的には対立を避ける
…日本とは、石油輸出入などの貿易を含めて敵対的でない関係にある
 (日本はイスラム国家との対立の歴史がない)

・イランとは敵対関係
…イランはシーア派
 (サウジアラビアでは、シーア派は邪教だと全国民が教育されてきたとされる)
…2016年1月3日、イランとの国交断絶を宣言
…シーア派に近いアラウィー派のシリア・アサド政権とも強く敵対
…イラン、シリアの同盟国である露国との関係も良くないとされる

・軍事
…志願制、職業軍人で構成
…サウジアラビア軍が守る優先順位(基本統治法33条)
 1.イスラム教義
 2.二聖モスク(マスジド・ハラームと預言者のモスク)
 3.社会と祖国
 ※国民の防衛は含まれていない
…民主国家の軍とは基本理念が異なる
 (民主国家の軍は、少なくとも建前では、国民とその権利を守ることが第一)
…米軍と親密な関係
…米中央軍第3軍の部隊駐留を認める
…キング・ハリド軍事都市など、国内にいくつもの米軍基地を置かせている
…兵站に必要な軍事施設同士の道路交通網なども米が整備
…湾岸戦争とイラク戦争では後方基地の役目

・経済
…2015年のGDPは約6320億ドル
…東京都よりやや小さい経済規模
…2015年の一人当たりGDPは2万138ドル
…G20の一員
…OPECの盟主的存在
…石油などの天然資源が主な外貨獲得源
 (石油が外貨収入の約90%を占める)
…獲得した外貨を世界各国で投資運用
…製造業などは小規模なものしか存在しない

・民族
…アラビア半島には古来から続く無数の部族勢力が跋扈
…サウジアラビア人という民族意識の形成には至っていない
 (サウド家による長年の中央集権化政策・部族解体政策にも関わらず)
…概ねサウジの住人は、サウジ国民という意識の前に、以下で自らを認識しているという。
 「どの部族の出身か」(部族対立)
 「どの地方の出身か」(地方対立)
 「どの宗派を信じるか」(宗教対立)
 「どの階級に属するか」(階級対立)
…2010年の人口は27,136,977人
…総人口のうち、サウジアラビア国籍は69%
 (総人口の31%が外国人労働者)
…最も多い外国人はインド人とパキスタン人、それぞれ130万~150万人


【おやこ新聞】まめちしき イランってどんな国?
更新
Q 宗教や民族は?
A 国民のほとんどがイスラム教のシーア派だよ。中東は多くがスンニ派の国で、イランは中東でも孤立していった。とくにスンニ派の大国、サウジアラビアとの対立は激しくなっている。サウジアラビアがアラブ民族なのに対し、イランはペルシャ民族で言語もペルシャ語を使っているんだ。


・宗教
…イスラム教が国教
…国民が他宗教を信仰することは禁止
…サウジアラビア国籍の取得の際にもイスラム教への改宗が義務付け
…西部にイスラム教の聖地メッカがある
 (世界各地から巡礼者が訪れる)
…イスラム世界での影響力は最も大きい
…多数のシーア派が居住する東部地方はアハサーと呼ばれていた土地で、サウジアラビアに征服され併合された土地
…湾岸戦争以降は他宗派を容認する方向へ方針転換
 (法律上もシーア派以外にも他宗教の存在を公式に認める)
…近年は他宗教の信仰も限定的に解禁されてきているが、これは建前上のものとされ、地方では他宗派への差別的政策が未だ執られている
…近年は宗教指導者たちが示す宗教的見解と民衆の生活の乖離が進む
 (国民が宗教的な指導に従わなくなってきている)
…宗教指導者がハラーム(禁忌)であるとファトワー(宗教見解)を出したものの多くを民衆が利用していることが珍しくなくなった。
 (代表例はポケモン、バレンタインデー、クリスマス)
…民衆が宗教指導者の言うことを聞かなくなった結果、宗教指導者が今まで以上に原理主義的で過激な発言を繰り返したり、宗教警察である勧善懲悪委員会による取り締まりを過激化させる傾向にある。
…2008年には過激派宗教指導者二人が国王によって解任されるなど、過激派宗教指導者はサウジアラビアでも排除され始めている
…イスラム教はシーア派かスンナ派のどちらかに大別できるので、ワッハーブ派のムスリムが自分はスンナ派と答えても間違いではない

・教育

…宗教教育を重視
 (イスラム教を国教とする祭政一致国家のため)
…自然科学や実技は不十分
…初等教育でクルアーン(コーラン)の朗誦、講義
…高等教育ではコンピューターや金融など第三次産業に関わるカリキュラム
…初の工科系大学(男女共学制)、サウジアラビア王立科学技術大学が2009年に設立
…シーア派を邪教とする教育が、シーア派を含む全ての国民に長く行われてきたとされる

・大衆文化
…近年では宗教指導者層の見解と庶民の生活感覚の乖離が大きくなってきている
…1965年からテレビ放送開始、しかし、宗教指導者がテレビに否定的見解を示す
 (現在でもアパートなどでテレビ不可を入居条件に明記している所がある)
…しかし、多くの市民は建物の隙間にアンテナを立てたり、近所からケーブルを引いたりしてこっそりと視聴。表向きは否定されながらもテレビは広く民間に広まっている。
…2010年には宗教指導者がポケモン禁止令、数年後に事件が鎮火すると再び放送
…クリスマスやバレンタインデーなど、他宗教に由来する祭日を祝うことは禁止
 (実際にバレンタインデー禁止のファトワー(宗教見解)が出されている)
…バレンタインデーは非合法とされ、勧善懲悪委員会による摘発も行われているが、庶民の多くはクリスマスやバレンタインデーを祝っており、クリスマスやバレンタインデーと無関係な商品だとする脱法行為に近い状態で商品販売も行われている。
…法律で酒類全てが禁止されているが、一般人の飲酒は珍しくない





以下、添付資料

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wikipedia-サウジアラビア

 サウジアラビア王国、通称サウジアラビアは、中東・西アジアの国家。首都はリヤド。
 サウード家を国王に戴く絶対君主制国家で、アラビア語による国名のアル=マムラカ・アル=アラビーヤ・アッ=スウーディーヤは「サウード家によるアラビアの王国」を意味する。
 世界一の原油埋蔵量を持つ国であり、石油(原油)をアメリカをはじめ世界中に多く輸出している。





国名

 公式の英語表記は Kingdom of Saudi Arabia(キングダム・オヴ・サウディ・アレイビア)。通称 Saudi Arabia(サウディ・アレイビア)。日本語の表記はサウジアラビア王国。通称サウジアラビア。まれにサウディアラビアとも表記される。サウジと略して呼ばれることも多い。
 リヒテンシュタインと同様に、国連加盟国でも非常に珍しい「統治王家の名前」を国名にしている国家である。





歴史

詳細は「サウジアラビアの歴史(英語版)」および「en:Saudi Arabia」を参照

 この国が現在存在する地域には長い歴史があるが、サウード王家自体は1744年に中央アラビアのナジュド地方に登場している(第一次サウード王国)。
 この年、リヤドの近くにあるディルイーヤの支配者ムハンマド・イブン・サウード(英語版)は宗教指導者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ(英語版)と盟約を結び、新たな国家体制をつくった。この同盟は18世紀に形成され、今日のサウジアラビア王朝の統治の基礎となっている。

 続く150年間、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトやオスマン帝国そして他のアラブ部族ラシード家(英語版)のジャバル・シャンマル王国と争い興亡を繰り返した(第二次サウード王国参照)。

 第三のそして現在のサウード国家は、1902年に僅か22歳のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王(サウジアラビア王国の初代国王)がサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回し、ナジュドで建国したものである(ナジュド及びハッサ王国)。
 アブドゥルアズィーズは征服を続けて、1913年からハサー(英語版)、1921年のハーイル征服(英語版)までにカティーフ、ナジュドの残り(ナジュド・スルタン国)、1926年までにヒジャーズを制圧した(サウード家のヒジャーズ征服(英語版))。
 1926年1月8日、アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王(マリク)となる。1927年1月29日にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号はスルタン)。
 1927年5月20日に結ばれたジッダ条約(アラビア語版、英語版)によってイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認め、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立。
 1932年に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュドそしてヒジャーズが統一してサウジアラビア王国が成立した。
 1934年、サウジ・イエメン戦争(英語版)、イドリシ朝アスィール首長国(英語版)を併合。

 アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済までには及ばず、1933年にサウジアラムコが設立され1938年3月にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」が発見されるまで国は貧しい状態だった(サウジアラビアの石油産業の歴史(英語版))。
 油田開発は第二次世界大戦のために中断したものの、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。

 アブドゥルアズィーズは1953年の崩御を前に、拡大した一族ネットワークに依拠する他の地域の絶対的支配者たちと対する難しさに配慮して王位継承の規定を図っている。
 同年に次男サウードが父の死を受けて第2代国王に即位したものの、1960年代にサウードの経済的失政によって王国は危機に陥り、またエジプトのナーセル大統領からの地域的な難問への対応にも失敗してしまった。その結果、1964年にサウードは退位させられ、代わって異母弟のファイサルが第3代国王に即位した。
 1973年の第4次中東戦争に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアを初めとする石油輸出国機構 (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。

 1975年に家族間抗争が一因でファイサル国王が甥のファイサル・ビン・ムサーイド(英語版)王子により暗殺された。その後、やはり異母弟のハーリドが王位を継ぎ第4代国王となった。
 1979年にイラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者によるアル=ハラム・モスク占拠事件が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。

 1982年にハーリドが崩御して異母弟のファハド(「スデイリー・セブン」の一人)が第5代国王に即位する。
 1990年にイラクが隣国クウェートを侵略して湾岸危機が起こると、国土防衛のために米軍の駐留を許可した。聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに敬虔なイスラム教徒たちは反発し、後に同国人のウサーマ・ビン=ラーディンが反米テロを組織する原因ともなった。

 2005年にファハドが崩御し、彼の異母弟のアブドゥッラーが第6代国王に即位した。アブドゥッラー国王治世下では、スルターン、ナーイフ、サルマーンのスデイリー・セブンが3代続けて皇太子を務めた。
 2015年1月、アブドゥッラーが崩御し、異母弟のサルマーンが第7代国王に即位、異母弟のムクリンが皇太子となった。
 同年4月、ムクリンは皇太子を解任され、ナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフが皇太子となり、第3世代王族への王位継承に初めて道筋をつけた。





政治

絶対君主制・政教一致

 サウード家による絶対君主制でワッハーブ主義に基づく厳格なイスラム教義を国の根幹としている政教一致。
 要職は王族が独占しており、ギネスブックには王族の数が世界最大と記載されている。サルマーン現国王は第2世代であるが現在は第6世代まで誕生している。
 建国以来、長年にわたって不文憲法を貫いていたが、ヒジュラ暦1412年シャアバーン27日(1993年3月1日)に公布された統治基本法が憲法の役割を果たすようになった。また、同時に諮問評議会法や地方行政法も発布され近代法治国家としての体裁が整えられた[2]。
 政府は統治基本法が憲法であるとしているが、一方でその第1条に「憲法はクルアーンおよびスンナとする」と明記されており、実態はクルアーンこそが“憲法”である。



wikipedia-絶対君主制
 絶対君主制(英: Absolute monarchy)とは、君主制の一形態で、君主が統治の全権能を持ち、自由に権力を行使する政体である[1]。対比語は、君主の権力が憲法などで制限されている政体である制限君主制。

用語
詳細は「絶対王政」を参照
歴史学では絶対王政もしくは絶対主義という語が一般的に用いられる。

概要
 絶対君主制においては貴族、諸侯、議会などよりも君主の権威が優越する。
 その正当性の根拠は神意に求められることもある(王権神授説)[1]。また君主を民の家長とみなしたり、国家・臣民を君主の財産と考えることによっても正当化される[1]。



wikipedia-クルアーン(コーラン)
 クルアーンあるいはコーランは、イスラーム教(イスラーム)の聖典である。
 イスラームの信仰では、唯一不二の神(アッラーフ)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示と位置付けられている。ムハンマドの生前に多くの書記によって記録され、死後にまとめられた現在の形は全てで114章からなる。
 クルアーンは、読誦して音韻を踏むように書かれている。「クルアーン」という名称はアラビア語で「詠唱すべきもの」を意味し、アラビア語では正確には定冠詞を伴って「アル=クルアーン」と呼ばれる。
 英語では、Quran(Qurʾan)または、Koranと表記されるが、「コーラン」は、回教(回紇(ウイグル)に由来))と共に中国語「古蘭(または可蘭)」に由来する。



行政・立法

詳細は「諮問評議会 (サウジアラビア)」を参照

 従来は内閣も議会も存在せず、勅令が法律公布と同義となり、行政も勅令の他、クルアーンやシャリーア(イスラム法)に則って施行されてきたが、統治基本法公布によって選挙が行われ、内閣に相当する閣僚評議会や国会に相当する諮問評議会、そして地方議会も設置された。
 ただし首相格の閣僚評議会議長は国王の兼任である。

詳細は「サウジアラビアの州」を参照

 国内は13の州に分割されている。勅任の知事(アミール)が就任するがサウード家出身者以外は認められない。



税制

 税金のない国と言われることもあるが、実際には統治基本法にザカート税(喜捨の義務)が明記されており、ザカート税法の規程が存在する。徴税担当は「所得税およびザカート税省」。
 属人主義であるシャリーアを基準とするサウジアラビアではサウジアラビア人とそれ以外の外国人では適用される税法が異なる。税率的にはほとんど変わらないが、サウジアラビア人にはザカート税を、外国人には所得税を課す。
 税金がないといわれる一因には、ワッハーブ派の法理ではザカートとワクフ以外の財産徴収はシャリーアに反する搾取であると考えられているため、欧米で言うところ税金は搾取であり憲法違反であるとされているからである。これはオイルマネーで潤っているからというわけでもなく、油田発見以前の貧しい国だった時代にも初代国王が欧米式の税制を導入しようとした時にイスラムに反するとして猛反対されて実施されなかった過去がある。
 ザカート、ワクフは欧米の税金とは違うものであるとする主張を採用すれば税金のない国となる。


司法

 サウジアラビアでは宗教が法律となりコーランに基づくイスラム法(シャリーア)により統治が行われている。しかし、実際は部族的慣習がそのまま社会的慣習となっているケースが多く、数々の矛盾を孕んでいるため、他のイスラム圏では見られない独特の環境を生み出している。
 この複雑な法体系の近代化が進められ、現代では大幅に制度改革が実施されている。
 司法は原則としてワッハーブ派に基づいて執行されることになっているが、東部州のシーア派住民は法務省の下位機関であるシーア派裁判所のシーア派の裁判官(カーディー)による裁判権が認められている。このため、一国に二種類の刑法と民法が存在するという複雑な事情があり、どちらの裁判所によって判決が出されるかによって適用される法律が異なる場合もある。
 ただし、シーア派に認められているのは24条の刑法と婚姻、遺産相続、ワクフのみであり、ワッハーブ派住民とシーア派住民の間で訴訟になった場合にはワッハーブ派の法が優先される差別的な状況になっている。
 通常の警察とは別に勧善懲悪委員会と呼ばれる宗教警察が厳しい取り締まりを行っており、違反者は外国人であっても問答無用で逮捕される。
 原則的に女性と男性は完全に区別されている。女性による自動車の運転の禁止(イスラムでは禁じられていない)や公共の場所でのアバヤ(ベール)、ヒジャーブ(スカーフ)、ニカーブ(顔のベール)の着用は一般にサウジアラビアの習慣について語る際にしばし用いられる特徴的なことであろう。
 男尊女卑が定められており、結婚、就職、旅行など全ての行為について、女性は父またはその男兄弟(即ち、伯父または叔父)、夫などの「男性保護者」の許可が必要である。20世紀初頭までのアジアでのいわゆる「三従」に似る。
 裁判はアラビア語のみで行われ、被告がアラビア語を理解できなくても通訳なしで一方的に進められる。また、証人はイスラム教徒の男性がアラビア語で証言しなければ証拠能力を認めない。このため、アラビア語を理解できない外国人労働者には極めて不利な裁判になる。
 飲酒やポルノ類の持込などに対しては重刑が課せられる。イスラム思想に則り法整備をしており、麻薬、強姦、殺人、同性愛においては死刑、窃盗においては手首切断や、飲酒においては鞭打ち刑などの身体刑を行っており、また裁判についても被告人が理解できない言語で公判が進められたりと公平でない上、判決を容認しない場合は弁護士などは資格を剥奪される。
 これらの法令は西欧各国のメディアにより非難されている。
 2005年5月にはスリランカから出稼ぎに来ていたリザナ・ナシカというメイド(事件当時17歳)が赤ん坊にミルクを与えた際に気管に詰まり、メイドが救命措置を取ったが死亡してしまい、事故死ではなく殺人であるとされ死刑が宣告された。スリランカ政府は寛大な処分を求めたが、それにもかかわらず2013年1月、斬首刑が執行された。

詳細は「リザナ・ナシカ」を参照

 ムハンマドの慣例に従い9歳女子との結婚を認めるというイスラーム法が存在するため、10歳前後での早婚も公に認められている[3][4]。
 一例ではあるが親の借金のかたに結婚させられる8歳の幼女までも存在し[5]、上記のイスラーム法に定められた年齢になるまで性行為を行わないことを条件に結婚の継続が承認されている[6]。これに関しては批判も少なくないが、サウジの大ムフティーであるアブドルアジズ・アール=アッシャイフが、イスラーム法上10歳の少女でも結婚・性行為の対象とすることができ、批判者は少女への不正義を行っていると逆に批判した[7]。
 名誉殺人も存在しているとされ、認められれば罪に問われないことが多い。家族を他の宗教に改宗させようとした外国人とその家族を射殺した男はこれにより無罪判決が下った。
 ディーヤと呼ばれる制度があり、被害者の法定相続人が加害者を許した場合は罪に問われない。これは金銭によって示談になった場合にも適用される。





外交

 ソビエト社会主義共和国連邦が最初に認め、事実上計画経済をとるにも関わらず (en:Economy of Saudi Arabia) 、君主制のために独立後、冷戦時を経てアメリカ合衆国や宗主国イギリスなどの西側諸国との関係が深く、特に中東では最大の親米国家であり同盟関係を持っている。
 そのため、サウジアラビアの人権侵害等を西側諸国は表立って非難しない最大の要因となっており、外交では常にサウジアラビアの姿勢を擁護しており、イランやシリア等の反米国家に対する対応とは正反対となっている。
 一方でイスラム教国の盟主的な存在であることから、ユダヤ人国家であるイスラエルを承認していない。しかし両国ともにアメリカやイギリスとの関係が深いことから表面的には対立を避けている。
 また、歴史的な関係が深く、ともに王室が存在しているスペインとは王室同士の交流が頻繁にあるなど友好関係が深い。
 なお、イスラム国家に対する対立の歴史がない日本とも特に1960年代の高度経済成長以降日本がエネルギー外交を進めることもあり、石油の輸出入などの貿易を含め敵対的でない関係にある。
 しかし、サウジアラビアには人権(特に自由権)について大きな問題があるため宮内庁は日本の皇室のサウジアラビアへの接近には極めて慎重である(表向きは日本と違いすぎる気候と政情の不安を理由とする)。反面、経済的理由からサウジアラビアとのつながりを深めたい内閣等の強い要望で、皇太子徳仁親王が何度か訪問したことがあり、アブドラ国王崩御の際にも訪問されている[12]。
 シーア派のイランとは敵対関係にあり、2016年1月3日には国交断絶を宣言している[13]。シーア派に近いアラウィー派のシリアのアサド政権とも強く敵対してきた。また、両国の同盟国であるロシアとの関係も良くないとされる。





軍事

詳細は「サウジアラビア軍」を参照

 基本統治法33条によればサウジアラビア軍が守るべきものの優先順位は一に「イスラム教義」、二に「二聖モスク」(マスジド・ハラームと預言者のモスク)、三番目が「社会と祖国」であり、「国民」の防衛は含まれていない。少なくとも建前の上では、国民及びその権利を守ることを第一とした民主国家の軍とは基本理念が異なる。

 アメリカ軍と親密な関係を持ち、アメリカ中央軍第3軍の部隊駐留を認め、キング・ハリド軍事都市など国内にいくつもの米軍基地を置かせている。兵站に必要な軍事施設同士の道路交通網などもアメリカによって整備されている。
 装備はアメリカ式のものだけでなく世界中からさまざまな装備を採用しており、たとえば主力戦車としてアメリカのM1エイブラムスとロシアのT-90をともに300両以上保有するなど、多種多様な兵器を装備している。
 その背景には、武器購入を通じて緊密な友好関係を結ぶことや、軍部と軍事産業との汚職がある。特に、駐米大使を長く務めたバンダル・ビン・スルターン王子(当時国防大臣だったスルターン皇太子の息子 2012年から2014年まで総合情報庁長官)は1982年のF15の輸入に際してアメリカ議会で強力なロビー活動を展開し、またBAEシステムズとの400億ポンドにのぼる取引でも王子側に10億ポンドの賄賂が渡ったことが明らかになっている[15]。

 2011年の軍事支出は485億USドルと若干の増加傾向にある。
 使用する兵器の大半は輸入に頼っているが、1998年にはダンマームの工場で国産のファハド装甲車を生産するなど、工業基盤の成熟に伴い兵器の国産化を始めている。
 湾岸戦争とイラク戦争では後方基地としての役目を担っていた。

志願制であり、職業軍人により構成されている。

正規軍

陸軍
海軍
空軍
防空軍

準軍事組織

サウジアラビア国家警備隊
王室警備隊
総合情報庁
武装警察
サウジライトニングフォース





地理


 アラビア半島の大部分を占め、紅海、ペルシア湾に面する。中東地域においては面積が最大級である。
 北はクウェート、イラク、ヨルダン、南はイエメン、オマーン、アラブ首長国連邦、カタールと国境を接する。かつては、イエメン、オマーン、アラブ首長国連邦との国境線は大部分が未画定であったが、2000年までにすべて画定した。
 アラブ首長国連邦との国境は1974年の条約によって一時画定し、これによりサウジアラビアはアル・アイン周辺の数ヶ村をアラブ首長国連邦へ譲り渡す代わりにカタールとアブダビとの間のアラビア湾に面した地域の割譲を受けて、アラブ首長国連邦とカタールとは国境を接しなくなった。
 しかし2006年にアラブ首長国連邦政府はふたたび割譲した地域の領有権を主張し、紛争が再燃した。
 国土の大部分は砂漠で、北部にネフド砂漠、南部にルブアルハリ砂漠(広さ25万平方km)があり、その間をアッダハナと呼ばれる長さ1500kmに及ぶ砂丘地帯が結ぶ。鉄分を含むため赤色を呈し、衛星画像で弓状に曲がった地形が識別できる。
 砂漠と紅海の間には中央山地(北のヒジャーズ地方からトワイク山地)があり、西部で標高1500m、東部で800mである。南部には最高地点であるサウダ山(英語版)(標高約3000m)がそびえる。
 砂漠気候で夏は平均45°C、春と秋は29°Cで、冬はまれに零下になる。昼夜の気温差が大きい。





経済

 2015年のGDPは約6320億ドルであり[18]、東京都よりやや小さい経済規模である[19]。
 同年の一人当たりGDPは2万138ドルである[18]。
 OPECの盟主的存在であり、石油などの天然資源の採掘と輸出が主な外貨獲得源(石油が外貨収入の約90%を占めている)となっているほか、これらで獲得した外貨を世界各国で投資運用している。
 中央銀行は1952年に設立された通貨庁であり、政府系投資ファンドとしても知られている。
 しかしながら製造業などは小規模なものしか存在せず、また巡礼者や業務渡航以外の一般観光客を受け入れていないことから、観光業による外貨獲得も非常に低い。この為、近年では政府主導でITなどを中心とした経済多角化を進めているが、依然として天然資源開発関連以外の分野においては外国資本導入が進んでいない。
 2010年9月、英国のシンクタンクのZ/Yenグループによると、リヤドは世界第69位の金融センターと評価されており、中東ではドバイ、カタール、バーレーンと比較するとまだ出遅れている[20]。
 G20の一員となっている。



主な企業

サウジアラビア航空
サウジアラムコ
SABIC (Saudi Basic Industries Corporation)
キングダム・ホールディング・カンパニー
サウジ・ビンラディン・グループ





国民

民族

 広大なアラビア半島には古来から続く無数の部族勢力が跋扈しており、サウド家による長年の中央集権化政策・部族解体政策にも関わらずサウジアラビア人という民族意識の形成は至っていない。
 部族社会が定住民だけでなく遊牧民から形成されていること、各地に点在する少数派宗教なども状況を難しくしている。サウード家自身、中央集権化政策が頓挫するたびに部族間・宗教間のパワーバランスを権力保持に利用している
 概ねサウジの住人は、サウジ国民という意識の前に「どの部族の出身か」(部族対立)、「どの地方の出身か」(地方対立)、「どの宗派を信じるか」(宗教対立)、「どの階級に属するか」(階級対立)で自らを認識しているという。
 統計局が発表した2010年の人口統計は27,136,977人で、サウジアラビア国籍が18,707,576人と全体の69%に過ぎず、外国人が8,429,401人となっており、総人口の31%が外国人労働者である。
 最も多い外国人はインド人とパキスタン人でそれぞれ130万~150万人に達する。次いで、エジプト人、イエメン人、バングラデシュ人、フィリピン人、ヨルダン人、インドネシア人、スリランカ人、スーダン人などが多くなっている。
 労働省によると、登録されている家庭内労働者120万人のうち、女性48万人がメイドとして登録されている


宗教

 宗教はイスラム教が国教である。このため、国民が他の宗教を信仰することは禁じられており、サウジアラビア国籍の取得の際にもイスラム教への改宗が義務付けられている。
 西部にイスラム教の聖地であるメッカがあるため、世界各地から巡礼者が訪れることもあってイスラム世界においての影響力は最も大きい。
 このため、サウジアラビア国民はイスラム教徒が100%であると公表されているが、これは他の宗派や宗教の存在を公式に認めていないという建前上の見解によるものである。
 実際には国内に多数のシーア派は住んでおり、財団法人中東経済研究所の調査によると、シーア派はイランと地理的に近い東部州に多く東部州の人口の42.5%を占めており、サウジ全土では6.4%になると推定されている。また、イエメンに近い南部のアブハーなどもシーア派(イスマーイール派、ザイド派)が多いとみられる。CIAによる統計ではスンニ派が85~90%、シーア派が10~15%と推計されている[21]。
 多数のシーア派の居住する東部地方はアハサーと呼ばれていた土地で、サウジアラビアに征服され併合された土地である。
 初代国王アブドルアジーズは東部州を併合するのに際しシーア派住民による一定の自治を認めたが、時代と共に自治権を奪われ名目上は存在しないことにされてしまったという経緯がある。このため、長年にわたりシーア派の宗教機関は非合法な存在とされてきた。湾岸戦争以降は、反体制運動を行っていたシーア派を容認、和解した。

 湾岸戦争以降は他の宗派を容認する方向へ方針転換を行い、法律上もシーア派以外にも他宗教の存在を公式に認めている。近年では他宗教の信仰も限定的ながら解禁されてきている。しかし、これは建前上のものとされ、地方では他宗派への差別的政策が未だ執られている。
 また、他宗教の容認は国政の一層のイスラーム化を求めるイスラーム主義の改革運動の激化を引き起こし、サウジアラビア人によるイスラーム主義武装闘争派のテロを引き起こした。このため、各個人や集団による私的なジハードを禁止するために、国王の勅令がなければ禁止とする法令が出された。
 国民の4%はキリスト教徒だとも言われているが、内務省の統計では外国人居住者(数十万人のアメリカ軍関係者と外国人)もキリスト教徒に含まれている。

 近年では宗教指導者たちが示す宗教的見解と民衆の生活の乖離が進み、国民が宗教的な指導に従わなくなってきており、宗教指導者がハラーム(禁忌)であるとファトワー(宗教見解)を出したものの多くを民衆が利用していることが珍しくなくなった。代表的なものとしてポケモン、バレンタインデー、クリスマスなどがある。
 民衆が宗教指導者の言うことを聞かなくなった結果、宗教指導者が今まで以上に原理主義的で過激な発言を繰り返したり、宗教警察である勧善懲悪委員会による取り締まりを過激化させる傾向にある。これによってとんでもない理由での刑罰や死刑が科されることがある。
 このような過激な発言がニュースで配信されたりしてネット上で話題になることがあるが、発言と実情がかけ離れていることが多い。

 2008年には過激派宗教指導者二人が国王によって解任されるなど、過激派宗教指導者はサウジアラビアでも排除され始めている。
 実際にサウジアラビア人に「あなたの宗派はなんですか」と聞くとスンナ派と答えることが多い。
 ワッハーブ派という名称が原理主義者、テロリストの宗教という偏見が定着してしまったこともあり、サウジアラビア人でも宗教指導者と宗教学校出身者以外でワッハーブ派と名乗ることは少ない。元々ワッハーブ派はスンナ派の系統であり、スンナ派には他にマーリク学派、ワッハーブ派以外のハンバル学派も含まれる。イスラム教を大きく二分すればシーア派かスンナ派のどちらかに大別できるので、ワッハーブ派のムスリムが自分はスンナ派と答えても間違いではない。

 サウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議は長年にわたりワッハーブ派が独占してきたが、近年になって近い宗派であるシャーフィイー学派がわずかに参加するようになり、2009年2月14日に21名に増員されるとハナフィー学派とマーリク学派のウラマーも入った。
 これによってサウジアラビア最高の宗教権威であった最高ウラマー会議がワッハーブ派の独占ではなくなりスンナ派の四大法学派が全てそろったことになる。





教育

 イスラム教を国教とする祭政一致国家のため宗教教育が重視されるが、自然科学や実技については不十分とされる。
 初等教育の段階でクルアーン(コーラン)の朗誦、講義を受ける。高等教育ではコンピューターや金融など第三次産業に関わるカリキュラムが組まれる。一方、初の工科系大学であり男女共学制のサウジアラビア王立科学技術大学(英語版) (KAUST) が、2009年9月に100億ドルの基金で設立された。
 また、シーア派を邪教とする教育が、シーア派を含むすべての国民に対して長らく行われてきたとされる。
 2008年10月29日、これまで女性が学ぶことが困難であった医学、経営学、外国語などを教えるサウジアラビア初の女性専用の総合大学を創設することが国王アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ・アール・サウードによって決定され、リヤド郊外で起工式が行われた。
 女子がスポーツを行う機会は限られており、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、「公教育で女子の体育を禁じている唯一の国」として批判している。
 サウジアラビア教育省は、2013年5月、一部私立校で女子の体育の授業を認めると発表した[22]。2012年のロンドンオリンピックに、初めて女性選手を送るなど、近年、僅かながらではあるが女子のスポーツへの門戸が徐々に開かれている[23]。





文化
スポーツ

 近隣の中東諸国同様サッカーが盛んであり、実際に中東、アジア内の強豪の一国として知られている。アジアカップの上位争いの常連であるだけでなく、FIFAワールドカップの常連としても知られている。



大衆文化

 近年のサウジアラビアでは宗教指導者層の見解と庶民の生活感覚の乖離が大きくなってきている。
 1965年からテレビ放送が始まったが、宗教指導者がテレビに対して否定的見解を示しているため、現在でもアパートなどでテレビ不可を入居条件に明記している所がある。しかし、多くの市民は建物の隙間にアンテナを立てたり、近所からケーブルを引いたりしてこっそりと視聴していることが多く、表向きは否定されながらもテレビは広く民間に広まっている。
 娯楽番組の視聴には衛星放送が広く利用されており、同じアラビア語圏の番組が衛星放送を利用して視聴されている。
 近年では国営放送でも日本のアニメを放送するなど非常に軟化した態度を示すようになったが、これに反発した宗教指導者が2001年にポケモン禁止令を出した。しかし、数年後に事件が鎮火すると再び放送されており、ポケモン禁止直後にデジモンアドベンチャーが放送されるなど放送業界は柔軟な態度を示している。

ポケモン禁止令の詳細はポケットモンスター#ポケットモンスターに関する様々な逆風を参照

 サウジアラビアではクリスマスやバレンタインデーなどのキリスト教など他の宗教に由来する祭日を祝うことが禁止されている。
 実際にバレンタインデー禁止のファトワーが出されており、バレンタインデーは非合法とされ勧善懲悪委員会による摘発も行われているが、庶民の多くはクリスマスやバレンタインデーを祝っており、クリスマスやバレンタインデーと無関係な商品だとする脱法行為に近い状態で商品販売も行われている。
 彼らはキリスト教を信仰しているわけではなく宗教観に無関係に祝う日本人の姿に近い。

 法律で酒類全てが禁止されているにもかかわらず、一般人の飲酒は珍しくない。
 都市部では週末の夜になると酩酊者が路上などで倒れていることが多く、警察も日常茶飯事であるため逮捕というよりも酩酊者の保護に近い扱いになっており、飲酒罪についても刑事罰の罰金というよりも酩酊者保護費用の請求のような感覚になっている。酔って暴れたなどの問題が生じた場合は鞭打ち刑になる場合があるが、重罪になることはまれである。
 バーレーンなどの周辺諸国からの酒類の輸入(建前上は密輸になる)や、国内にいる飲酒を違法とされない異教徒による酒の製造などが行われている。

 また、派手なライフスタイルで知られる米国人のパリス・ヒルトンがサウジアラビアなどの中東でのみファッションブランドを展開し、その店舗はイスラム教の聖地メッカにも進出しているという事実があり、一般の欧米人よりも派手で身体の露出の大きい衣服を売り物にしたファッションブランドが女性に人気という側面がある。



ネット文化

 インターネットの規制が厳しく、国内から海外のサイトへの接続は厳しく制限されている(ネット検閲)。
 国内ではアラビア語の出会い系サイトやSNSなどが運営されている。家族以外の男女は会話をすることすら禁止されているが、親族男性の代理人がメールや書き込みを行っているという設定で女性が直接書き込んでいたりして、脱法行為的にネット上での男女交際が行われることも多い。



出版

 厳重な報道管制と言論統制が敷かれており、当局が許可した書籍でなければ販売することが出来ない。
 特に王族に関する批判的な書籍は検閲で発売を禁じられ、世界の長者番付が掲載されアブドゥッラー現国王の資産が公開されたビジネス誌『フォーブス』は国内発禁となるなど不敬規定がある。内政に関する外国マスメディアの取材も大幅に制限され、日本ではNHK『クローズアップ現代』が2006年12月にようやく許された程度である[24]。
 しかし、2007年にはサウジアラビアの女性を主人公にした小説「リヤドの女たち」の発禁処分が解かれ、ベストセラーになるなど少しずつ自由化してきている。
 厳しい検閲が実施されているが、出版の抜け道としてメールマガジンがある。メールの送信は出版とはみなされていないため、紙に印刷されないメールマガジンによる発行は合法とされている。リヤドの女たちも元はメールマガジンで発行されていた小説だった。
 出版物に関する著作権は著作権審議委員会によって管理されており、カーディ裁判は著作権問題による訴えを扱わないため、著作権侵害があった場合は民事訴訟などではなく委員会に申し立てることになっている。ただし、申し立てが出来るのは検閲による許可を受けている出版物のみで、日本や欧米のように無条件に著作物に著作権があるわけではない。





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改訂履歴
※2016.1.5、「簡単まとめ」追記(冒頭)
※2016.1.8、解説追記、「簡単まとめ」>>「・国体」>>「wikipedia-クルアーン」
※2016.1.8、解説追記、「簡単まとめ」>>「・国体」>>「wikipedia-スンナ」
※2016.1.17、記事追加、「【おやこ新聞】まめちしき イランってどんな国? 更新」