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2015年12月16日水曜日

【良作紹介】 美しい日本の国歌 君が代特集


君が代は千代に八千代に
さざれ石の巌(いわお)となりて
苔のむすまで

Japanese National Anthem Kimigayo
斎藤秀三郎(さいとう ひでさぶろう)訳
明治・大正期を代表する英語学者・教育者

May the glorious glorious reign
Last for ages,myriad ages
Till the tiny small pebble
Into mighty rocks shall grow
Hoary moss shall overgrow them all


オーケストラによる演奏、美しい日本の景色とともに
日本国国歌 君が代 Japanese National Anthem Kimigayo (HD)
https://www.youtube.com/watch?v=h0j5lClcdmU
WJF Project (main) 様、2011/11/11 に公開


雅楽による演奏、竜笛: 芝祐靖、笙:宮田まゆみ
[HD] 日本国国歌 君が代 長野五輪開会式 National Anthem of Japan, 1998 Nagano
https://www.youtube.com/watch?v=ZJW3gyENF5A
Mintaka Alnilam 様、2015/08/06 に公開


戦前の「君が代」斉唱 / National Anthem of Japan in 1940  
https://www.youtube.com/watch?v=MCRqJIUS-EQ
Mm Japanese 様、2015/06/27 に公開





wikipedia-君が代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3

 君が代(きみがよ)は、日本国の国歌である。「天皇の治世」を奉祝する歌であり[1][2]、「祝福を受ける人の寿命」を歌う和歌を元にしている[1]。
 歌詞は10世紀初めに編纂された『古今和歌集』の短歌の一つ[3]。曲は1880年(明治13年)に付けられた。日本の国歌として「君が代」が採用されたのも1880年(明治13年)のことである。ただし、このときは法律では定められなかった。国歌のテーマは皇統の永続性である。
 以後、国歌として歌われ続け、1999年(平成11年)、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗・国歌法)で正式に国歌として法制化された。
(以上、抜粋の上で一部編集)



歴史(制定までの経緯)

日本における君が代の認識

 国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌としての有り様は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。

「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」[5]

 つまり、国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。国歌と訳した[注 2]ものの、それまで国歌は和歌と同義語で漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった[5]。
 こういった和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として『国歌君が代の由来』を残した小山作之助もまずは歌詞についての考察から始めている。

和歌としての君が代

テキストと作者

 作者は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師で、当時は位が低かったために詠み人知らずとして扱われるが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜ることとなる。[要出典]
 歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。

我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

 「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)[6][7]。
 『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかと推測されている[8]。
 なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた[8]。

解釈

 万葉集などでは「君が代」自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉である。転じて「わが君の御代」となる。国歌の原歌が『古今和歌集』の賀歌であるため、そもそも「我が君」の「君」とは天皇なのかどうかということがしばしば問題にされる。
 『古今和歌集』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」ということであり、それ以上はなにも断定できない[9]。
 『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人[注 3]の具体的な祝い(ほとんどが算賀だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだが、最初の4首は読み人知らずで作歌年代も古いと見られ歌が作られた事情もわからない。その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる[10]。
 これはあくまでも『古今和歌集』賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると朗詠は詠唱するものでありどういう場で詠唱されたかという場の問題が大きく出てくる。さらに後世、初句が「君が代は」となりさまざまな形で世に流布されるにつれ歌われる場も多様となり解釈の状況が変わっていくことは後述する。
 ちなみにそういった後世の状況の中にあっても、はっきりこの歌の「君」が天子であるとする注釈書も存在する。『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』[注 4]である。堯智は橘清友を作者として初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しているので少なくとも17世紀半ばの江戸時代前期において天皇の御世を長かれと祝賀する歌であるとする解釈が存在したことは確かである[5]。
 『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば、「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かう中で勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている[10]。

国歌になるまでの君が代

 元々は年賀のためであったこの歌は、鎌倉期・室町期に入ると、おめでたい歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになる。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などには変形されて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』の曽我兄弟や『義経記』の静御前などにもその例を見ることができる。

明治維新から「君が代」制定まで

 1869年(明治2年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け、大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された[6][13]。
 当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、1876年(明治9年)に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終えて帰国、その後1880年(明治13年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた[6][7][13]。同年10月25日に試演し、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され国歌としての「君が代」が改訂。11月3日の天長節にて初めて公に披露された[7][13]。
 その後の1893年(明治26年)8月12日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示[7][14]。林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている[14]。また1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている[7]。以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた。
 1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞した[15]。



国歌としての君が代

第二次世界大戦前

 大山らが登場させて後は専ら国歌として知られるようになった「君が代」だが、それまでの賀歌としての位置付けや、大日本帝国憲法によって天皇が「万世一系」で「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」していた時代背景から、第二次世界大戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。
 修身の教科書には「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」と記された[16]。このように記述している文献もあるのだが、現存する教科書にこの様に印刷されている物は一つも確認されていない。
 また戦前、戦中を通して主に歌われていたのは「第二国歌」や「準国歌」とも言われる「海行かば」であり、君が代の様に「君」と言う広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない言葉ではなく、大君と天皇又は皇室のみを表す言葉が使用されている。

第二次世界大戦後

 第二次世界大戦後には、連合国軍総司令部(GHQ)が日本を占領し、日の丸掲揚禁止とともに、君が代の斉唱を全面的に禁止した[17]。その後GHQは厳しく制限しつつ、ごく特定の場合に掲揚・斉唱を認め[17]、1946年(昭和21年)11月3日の憲法公布記念の式典で斉唱された[18]。しかし、半年後の1947年(昭和22年)5月3日に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく憲法普及会が選定した国民歌「われらの日本」(作詞・土岐善麿、作曲・信時潔)が代用曲として演奏されている[18]。
 「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。例えば読売新聞は1948年(昭和23年)1月25日の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない。」とした上で「新国歌が作られなくてはならない。」と主張した[19]。
 日本国政府の公式見解は、国旗国歌法が提出された際の1999年(平成11年)6月11日の段階では、「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』、(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日に、「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』、『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のこととなる』、(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した[20]。
 学校・教育現場では、1946年(昭和21年)に国民学校令施行規則から「君が代」合唱の部分が削除されたが、「祝日には学校や家庭で日の丸掲揚、君が代斉唱することが望ましい」とする、文部省の天野貞祐文部大臣「談話」が1950年(昭和25年)10月17日に全国の教育委員会に通達され、1958年(昭和33年)学習指導要領に「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」と記載されたことなどから[21]、学校で再び日の丸掲揚・君が代斉唱が行われるようになり、これに反対する日本教職員組合等との対立が始まった。
 その後、学習指導要領は「国歌を斉唱することが望ましい(1978年)」、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする(1989年)」と改訂され、現在は入学式・卒業式での掲揚・斉唱を義務付けている[22]。

現状

詳細は「日本における国旗国歌問題」を参照

 君が代は、国旗国歌法によって公式に国歌とされている。法制定以前にも、1974年(昭和49年)12月に実施された内閣府・政府広報室の世論調査[注 5]において、対象者の76.6%が「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは9.5%だった[23]。



関連する楽曲

・君が代
・君が代行進曲
・唱歌版君が代
・箏曲・君が代変奏曲(宮城道雄作曲)
・信号ラッパ譜・君が代(戦前の陸軍・海軍のバージョン違いの2種類に、戦後制定のものの3種類存在する)
・皇子さま(久保田宵二作詞、佐々木すぐる作曲) - 今上天皇が生まれた時の奉祝の歌のひとつとして発表された。
・君が代(忌野清志郎)
・「君が代」の主題によるパラフレーズ 作品96(アレクサンドル・グラズノフ)



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改訂履歴
なし

【良作紹介】 元気が出ます! 軍艦マーチ特集


守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の
浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城 日の本の
皇国(みくに)の四方を守るべし
真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
仇なす国を攻めよかし

石炭(いわき)の煙は大洋(わだつみ)の
龍(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
弾撃つ響きは雷(いかずち)の
聲(こえ)かとばかり響(どよ)むなり
万里の波濤(はとう)を乗り越えて
皇国(みくに)の光 輝かせ



「出航用意!」のラッパに続いて演奏開始、護衛艦・潜水艦の航行シーンあり
演奏:海上自衛隊・佐世保音楽隊
平成27年度自衛隊観艦式 - 出港 行進曲 軍艦 (歌詞付き)3:05
https://www.youtube.com/watch?v=xYko2W3fjSY
Impress Watch 様、2015/10/15 に公開
 
 
旧帝国海軍バージョン、砲撃シーンあり (カラー、歌入り・歌詞付)
《軍歌》軍艦マーチ("Gunkan māchi "~March "Man-of-War"~) with Eng/Sub
Electric Eel Dog 様、2012/03/19 に公開
 
 
旧帝国海軍バージョン、砲撃シーン・艦載機発艦シーン・爆撃シーンあり (モノクロ、演奏のみ)
軍艦行進曲
Bohemian Archive in Japanese 様、2007/04/09 にアップロード
 
 
 
 
 
wikipedia-軍艦行進曲
 
 「軍艦行進曲」(ぐんかんこうしんきょく、Warship March) または行進曲「軍艦」は、瀬戸口藤吉作曲の行進曲。一般に「軍艦マーチ」として広く知られる。
 
解説
 
 1897年(明治30年)鳥山啓作詞の「軍艦」(初出からこの曲名、一部文献に此の城とあるも事実無根)に曲を付けて軍歌とし、その後、1897年(明治30年)頃に、准士官相当官の軍楽師だった瀬戸口藤吉が新たに作曲し、1900年(明治33年)に「軍艦行進曲」として誕生した(この当時、軍楽科の最高階級は軍楽師であった。昭和18年には軍楽少佐までの階級が設けられた。)。
 初演は、同年4月、戦艦富士乗組の軍楽隊によって行われた。
 戦前盛んに演奏され、1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦時にも繰り返しラジオから流された。海軍省の制定行進曲であり、海上自衛隊でも、海上幕僚監部通達により儀礼曲の一として「軍艦行進曲」の名称で制定されており、進水式や出港式典などで奏楽されている他、観閲行進曲として奏楽されている。
 日本を代表する行進曲の一つであり、広く国民に親しまれていた。
 
変遷
 
 現在では海上自衛隊の儀礼曲に指定され、儀礼曲の統一についての通達によって
 
1.観閲式における観閲行進の場合
2.自衛艦旗授与式における乗組員乗艦の場合
3.自衛艦命名式における進水の場合
4.その他必要と認められる場合
 
に演奏することとされている。
 
使用

・ミャンマー軍では軍艦行進曲の曲を流用した軍歌であるミャンマー・ドゥーイェ・タッマドゥ(Myanmar Tot Ya Tatmadaw)を使用しており、軍が運営するテレビ局の朝の開始音楽にも採用されている。
・台湾や東南アジアではこの曲の知名度も高く、CMのBGMなどとしても使用されたことがある。一方、中華人民共和国や大韓民国などでは公の場所でこの曲を歌ったり流したりした場合は他の日本の軍歌同様、非難の対象となるが、2005年には広州の幼稚園で知らずに毎朝流していた事が報じられた。
・1983年(昭和58年)には、時の内閣総理大臣である中曽根康弘が訪米した際、中曽根が大日本帝国海軍主計少佐出身であることからアメリカ海軍軍楽隊がこの曲を演奏して歓迎した。
・映画監督の古澤憲吾は「古澤といえば軍艦マーチ」と言われるほどこの曲を好み、数多くの作品で挿入曲として使用している(團伊玖磨によってアレンジが加えられた、テンポの速いものが多用された)。
・作曲家の池野成は、特撮映画『電送人間』(監督:福田純)で音楽を担当した際、ジャズアレンジを加えた軍艦マーチを挿入曲として提供している。
・西崎義展の作品では『ワンサくん』の第22話や『宇宙戦艦ヤマト』の再放送版第2話で使用されている。
・『ドラえもん』のてんとう虫コミックス14巻『ラジコン大海戦』の中で2番が使われている。ラジコンの戦艦大和が登場し軍艦行進曲を流しながら進むようになっていた。
・アニメ映画『火垂るの墓』で、防空壕内で蛍を飛ばした際に、帝国海軍の観艦式の幻想が登場しているが、そのバックが軍艦行進曲である。
・アニメ「名探偵ホームズ」の劇場版「海底の財宝」で軍艦マーチがそのまま使われている一方、テレビ版「海底の財宝」の同じ場面では別のBGMとなっている。またテレビ版第24話 「聞け! モリアーティ讃歌」において、替え歌が歌われている。
・1947年台湾で起きた二・二八事件で放送局を占拠した群衆が「軍艦マーチ」を流して蜂起を呼びかけた。
 
行進曲軍艦の碑
 
 市民団体の手で「行進曲軍艦の碑」が1996年(平成8年)に建立された。神奈川県横須賀市三笠公園・記念艦三笠。片面に旋律、反対側に歌詞が記されている。旋律はト長調で記譜されている。
 記念碑建立の際、市長の設置許可書はおりていたが、歌詞の内容が「好戦的」との理由で、横須賀市公園管理課の担当職員の一人が難色を示し、記念碑の除幕式の際は、職員の独断で、人目に触れないよう歌詞部分は黒のビニールで覆い隠された。またその後、歌詞の部分が何者かによりコンクリートで塗りつぶされる事件があった。その後有志によりこの歌碑は修復され、現在は歌詞が記載されたものになっているという[3]。
 
 
 
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改訂履歴
なし

2015年12月13日日曜日

【研究ノート】 アジア通貨危機


wikipedia-アジア通貨危機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E9%80%9A%E8%B2%A8%E5%8D%B1%E6%A9%9F

 アジア通貨危機とは、1997年7月よりタイを中心に始まった、アジア各国の急激な通貨下落(減価)現象である。
 この通貨下落は米国のヘッジファンドを主とした機関投資家による通貨の空売りによって惹起され、東アジア、東南アジアの各国経済に大きな悪影響を及ぼした。狭義にはアジア各国通貨の暴落のみを指すが、広義にはこれによって起こった金融危機(アジア金融危機)を含む経済危機を指す。
 前述のタイ、インドネシア、韓国はその経済に大きな打撃を受け、IMF管理に入った。マレーシア、フィリピン、香港はある程度の打撃を被った。中国と台湾は直接の影響はなかったものの、前述の国々と関連して影響を受けた。日本に関しては融資の焦げ付きが多発し、緊縮財政とタイミングが重なった結果、1997年と1998年における金融危機の引き金の一つとなり、1998年9月の政策金利引き下げ、10月7-8日の円急騰(2日間で20円の急騰)、10月23日の長銀国有化、12月13日の日債銀国有化へと繋がる一連の金融不安の遠因となった。
 また、新興国における通貨不安はアジア地域に留まらず、1998年8月17日からのロシア通貨危機、1999年1月ブラジル通貨危機などその他の経済圏でも同様の混乱をまねいた。



経緯

 日本、台湾、フィリピンを除く、アジアの殆どの国家は、米ドルと自国通貨の為替レートを固定する「ドルペッグ制」を採用していた。それまではドル安の状態で、比較的通貨の相場は安定していた。また欧米諸国は、固定相場制の中で金利を高めに誘導して、利ざやを求める外国資本の流入を促し、資本を蓄積する一方で、アジアは輸出需要で経済成長するという成長システムを採用していた。中でもタイはこのパターンの典型的な成長システムであり、慢性的な経常赤字であった。
 またアジアの国際分業体制は、1992年以降の中国改革開放政策の推進により、構造的な変化が生じており、東南アジアに展開していた日系、欧米系企業の多くが、当時人件費の安かった中国本土への生産シフトを強めていた。
 1995年以降、アメリカ合衆国の長期景気回復による経常収支赤字下の経済政策として「強いドル政策」が採用され、米ドルが高めに推移するようになった。これに連動する形で、アジア各国の通貨が上昇(増価)し、その結果アジア諸国の輸出は伸び悩む展開となった。これらの国々に資本を投じていた投資家らは、経済成長の持続可能性に疑問を抱く様になった。
 そこに目をつけたのが、欧米のヘッジファンドである。ヘッジファンドは、アジアの経済状況と為替レートの評価にズレが生じ、結果として自国通貨が過大評価され始めていると考えた。そこで過大評価された通貨に空売りを仕掛け、安くなったところで買い戻せば利益が出る。1992年にイギリスで起こしたポンド危機と同じ構図である。
 殆どの国家でドルペッグ制が採られていたため、ヘッジファンドは売り崩せれば巨額の利益を得られる一方で、例え失敗したとしても、アジア諸国の為替レートが上昇していくため、損を被るという可能性は低く、この非対称性が大規模な通貨への売り仕掛けを呼ぶこととなった。
 かくして、ヘッジファンドが通貨の空売りを仕掛け、買い支える事が出来ないアジア各国の為替レートは、変動相場制を導入せざるを得ない状況に追い込まれ、通貨価格が急激に下落した。



各国での状況

 1998年には五つの国と地域がマイナス成長を記録し、アジア経済全体でマイナス0.1%成長にまで落ち込んだ(中国を除くとマイナス4.9%成長となる)[1]。

タイ王国

 1990年代のタイ経済は、それまで年間平均経済成長率9%を記録していたが、1996年に入るとその成長も伸び悩みを見せ始めていた。この年、タイ王国は初めて貿易収支が赤字に転じた。
 1997年5月14日、15日にヘッジファンドがバーツ(以下฿)を売り浴びせる動きが出た。これに対して、タイ銀行は通貨引き下げを阻止するため外貨準備を切り崩して買い支え、バーツのオーバーナイト借入れレートを25-3000%に高めるなどの非常手段を用いて対抗した。同年6月30日には、当時の首相、チャワリット・ヨンチャイユットが通貨切り下げをしない(ヘッジファンドの攻撃に対する勝利宣言)をしたものの、再びヘッジファンドによる空売り攻勢が始まり、同年7月2日にバーツとドルのペッグ制は終わりを告げ変動相場制に移行した。
 それまでの24.5฿/$だった為替レートが一気に29฿/$台にまで下がった。このため国際通貨基金 (IMF) などは同年8月11日、20日の2回に分けて172億ドル[2]の救済を行った。1998年一月には、最低の56฿/$台を記録する。タイ中央銀行が必死に自国通貨を買い支えるべく奮闘しながら果たせなかった様を指して「血塗れのバーツ」とも呼ばれる。
 信用を失ったバーツの下落は止まらず、為替レートは危機前24.5฿/$だったが半年後には50฿/$を下回った。この後、タイ証券取引所(SET)の時価総額指数であるSET指数は357.13(1997年の最高値は858.97、史上最高値は1994年の1753.73)まで下落し、翌年には危機後最安値である207.31(史上最高値の11.8%)を記録した。
 それまで対外資金によってファイナンスされていた不動産バブルの崩壊に加え、IMFが融資条件として課した政府支出の削減と利子率の引き上げが、景気後退期における総需要の更なる減少を招いたこともあり、それまで好景気を謳歌していたタイ経済はあっという間に崩壊し、タイでは企業の倒産・リストラが相次ぎ失業者が街に溢れかえった。
 タイの通貨の変動を受けてバーツ経済圏にある、ミャンマー、ベトナム、ラオス、カンボジアも少なからず打撃を受けた。
 IMFは40億ドル、世界銀行は15億ドル、アジア開発銀行は12億ドルを支援を行った。このほか、二国間支援として日本は40億ドル表明しアジア諸国へも二国間支援への働きかけを行い、二国間支援総額として105億ドルが支援された[3]。



マレーシア

 マレーシアは1997年までにGDP(国内総生産)の6%にも及ぶ膨大な借金を抱えていた。同年7月にはマレーシアの通貨リンギットがヘッジファンドによる空売りの打撃を受け、同年8月17日、管理された変動相場制(事実上の固定相場制)から変動相場制へ移行した。
 1997年始めに1ドル=2.5リンギット程度だったレートが年末には1ドル=5リンギット程度と50%減価した。これを受けS&P(スタンダード・アンド・プアーズ)の国債格付けが下がった。1週間後には、マレーシア最大のメイバンクの格付けが下げられ、同じ日にクアラルンプール証券取引所は1993年以来の最大の856ポイントもの落ち込みを記録した。同年10月2日には再びリンギットが下落し、マハティール・ビン・モハマド首相は資産のコントロールを発表した。しかし、マハティール首相が経済建て直しのため道路・鉄道開発、パイプライン計画を発表した同年の暮れには再三のリンギット値下がりがあった。翌年の1998年9月、リンギットはドルペッグ制へ移行し、1ドル=3.8リンギットとなった。
 再生計画にも拘らず1998年度は経済が落ち込み、建設業は23.5%、工業は9%、農業は5.9%落ち込み、GDP は実に6.5%下がった。



インドネシア

 インドネシアは、金融情勢も良好で200億ドル以上の外貨準備、90億ドル以上の貿易黒字を維持し、タイと違い緩やかなインフレーションを見せていたため、アジア通貨危機がはじまった当初は、影響をさして受けなかった。それどころか、インドネシアの企業はドル建てで資金調達をしていたため、ドルが上昇した時は逆にプラスに作用した。
 しかし、1997年7月にタイがバーツを変動相場制へ移行したとき、インドネシアの通貨局が為替介入(trading band)し、ルピアのレートを8%から12%に固定するとルピアは危機に見舞われた。同年8月にはルピアは変動相場制へ移行するが、これがルピアの値下がりを早めた。法人負債がかさんでいることに、ルピアの激しい空売りなどに不安感があり、さらに下がり続け、同年9月にはジャカルタ証券取引所が史上最低を記録した。これにより格付け団体ムーディーズはインドネシアの株のグレードを下げた。
 同年10月31日、IMF、世界銀行、アジア開発銀行は総額230億ドルの支援を約束し、翌11月1日には、第二線準備としては日本(50億ドル)、シンガポール、米国などを含む162億ドルの枠組みが決定された(第二線準備については結局使用されなかった)。
 このほか、日本は単独でも11月の為替介入にも協力、翌1998年6月には日本輸出入銀行(現・国際協力銀行)を通じてツー・ステップ・ローン10億ドルを即時実行した。1999年2月には「新宮澤構想」の一環として総額24億ドルの信用供与を決定し、インドネシアへの金融支援に取り組んだ。この「新宮澤構想」によって世界銀行、アジア開発銀行も追加支援の姿勢を打ち出すことになったという[3]。
 夏に始まった通貨危機が、インドネシアでは11月に波及したのは、インドネシアの企業が夏期収支報告書を見てから初めて対策を採ったからだと言われる。インドネシアの企業はドル建てで負債を建てていたため、ルピア相場から見て借金が高くなり、さらにルピア相場が落ちることを恐れてドルを買い込んだ。この結果、通貨危機はインドネシア国内にインフレーションを起こし、急激な食品価格の上昇とそれに対する暴動を招いた。
 また、アチェ、東ティモール、西パプアなど反政府的な地域でも政府に対する反政府運動が激化した。32年に渡り独裁者としてインドネシアを支配していたスハルト大統領はインドネシア銀行の最高責任者を解任したが、事態は一向に収まらず、結局スハルトは辞職し、ハビビが新しく大統領に就いた。



フィリピン

 1997年のヘッジファンドによる、タイ・バーツの空売り開始により、フィリピン共和国政府は、同年5月にフィリピン中央銀行の公定歩合を1.25%まで上げた。同年の6月19日には、さらに2ポイント引き上げた。タイ王国政府が同年7月2日に、バーツに変動相場制を導入すると、逆に自国通貨であるフィリピン・ペソを守るため、翌日物金利(overnight rate)を15%から24%まで上げた。



香港

(信濃注:返還直後の香港、英から中国への返還は1997年7月1日)

 香港も通貨香港ドル(以下HK$)をアメリカドルに固定していた (7.8HK$/$)。HK$も他のアジア各国と同じく1997年10月に打撃を受けた。しかし、香港金融管理局は10億ドル以上を投入し、HK$を守り、変動相場制への移行を回避した。
 香港の株式市場はますます不安定になり、同年10月20日から23日までの間にハンセン指数は23%まで下がった。同年8月までに翌日物金利 (overnight rate) は8%から23%まで上げられた。
 香港は単なるドルペッグ制ではなく、カレンシーボード制といい、自国の金融政策を放棄し、香港ドル発行の際には米ドルの裏づけが必要であったためで、香港ドルの大量の売りがあると、香港ドルは米ドルへ交換され、結果的に市中に出回る香港ドルの流通量が少なくなり、翌日物金利が上昇し、金利上昇により、売りが耐えられなくなるためである。



韓国

「IMFによる韓国救済」も参照

 韓国は、マクロ経済のファンダメンタルズが十分であったが、一方で金融部門では不良債権を抱えてしまった。過剰な借金は、経営判断で大きなミスを招き、経営交代を招いた。起亜自動車の倒産を皮切りに、経済状態が悪化。IMFの援助を要請する事態となった。
 アジアの市場に異変を感じたムーディーズは、1997年7月に、韓国の格付けをA1からA3まで落とし、同年の11月には、さらにBaa2にまで格を落とした事で、既に落ち込んでいた韓国の証券取引市場をさらに冷え込ませて、韓国経済を不振に陥れた。
 先進国協調の下で、韓国に対する金融支援パッケージが組まれた。日本も、第二線準備としては最大の100億ドルの支援の意向を表明したが[4]、結局、第二線準備金は使用されることはなく貸し出されることはなかった[5][6]。
 ソウル証券取引所は、同年11月7日に4%も落ち込み、翌日には一日の株価変動としては、史上最大の7%の下落を記録した。この後、IMFがしっかりとした再建を行うかどうかの不安感も災して、1997年11月24日には、さらに7.2%落ち込んだ。12月12日時点で、韓国の抱えていた民間短期対外債務残高は、320億ドル、その借入先の内訳は、日本が118億ドル、ヨーロッパ全体で118億ドル、アメリカ合衆国で42億ドルであったとされる[3]。
 そして、同年末に韓国は、デフォルト寸前の状況にまで追い込まれた。これにより IMFが韓国の経済に介入し、現代グループなどに対して財閥解体が行われた。先に述べた、日米欧の民間銀行に対する債務返済繰り延べ(リスケジューリング)の成否が、まさに韓国の国家破産を回避できるかどうかの鍵を握っていた。
 日本国政府は、邦銀に対して返済繰り延べの説得に奔走し、混乱する金融市場の中で邦銀の合意を取り付け、1998年1月29日には、日米欧民間銀行団の短期債務繰り延べ交渉を妥結に導いた。これは市場に大きな安堵感を与え、1月29日に1ドル=1,678ウォンであった為替レートは、翌1月30日には1,524ウォンまで値を戻した。
 なおIMFは、韓国に対し救済融資をする傍ら、国債発行量に枠を定めた。しかし、韓国銀行は「通貨安定証券」という名の、事実上の国庫債券の発行に踏み切った[7]。この高い利払いにより、中央銀行は赤字決算に陥った[8]。
 その後、金大中大統領によって、海外からの証券投資に対する規制緩和がなされ、対外証券投資の流入が促進された。こうして韓国の国際収支は、安定を取り戻していった[3]。韓国では、1997年の経済危機は『朝鮮戦争以来、最大の国難』『IMF危機』と、呼ばれている。

日本

 日本では、経済恐慌などの危機は直ちに発生しなかったが、危機に際してアジア諸国への支援金の支出なども含め、相応の経済的打撃を被っている。当時アジアでも特に著しい経済力を持ち、アジア各国へも工業製品を輸出する産業の多い日本は、それら各国の通貨危機の影響も少なからず被っている。
 バブル崩壊後、カンフル景気など漸く内需主導の回復途上にあった日本経済は、橋本龍太郎政権の緊縮財政、消費税5%増税、および、アジア通貨危機の影響などが、元々日本経済が抱えていた経済課題に合わさり、1998年には実質マイナス成長に転じている(就職氷河期、第2次平成不況、日本列島総不況)。以後、平成金融不況の期間も含めてデフレーションが継続する経済停滞の期間を失われた20年と呼ぶ[9]。



中華人民共和国

 中華人民共和国では外国企業の進出が多く、金融システムにも問題があったにもかかわらず、国内全体の預金がほとんど国内口座にあったうえ厳しい規制があったため、あまり影響を受けなかったと推測される。
 とくに海外移入資本はむろんのこと国内資本の自由な移動も規制されている段階であったほか、外国為替(元相場)が事実上のドルペッグであったにも拘らず、為替取引に関する「事前申請制」を採用していた事が大きい[10]。
 当時、中国がいつ人民元の切り下げを行うかに多大な関心が集まっていたが、とうとう切り下げは行われなかった。このとき、中国が切り下げを行えば通貨危機はさらに拡大していた可能性もある。



アメリカ

 アメリカでは1997年10月27日、アジア経済への不安から、ダウ・ジョーンズ工業平均株価は554ポイント (7.2%) の株価下落を記録した。ニューヨーク証券取引所は短い間ながら取引を停止した。
 通貨危機は消費者信頼感指数の低下に繋がった。



日本の支援

 日本は、2年間にわたり国際機関やG7各国と協調し当初の危機対応において、二国間支援の主導的な役割を果たした。また、一時的な資金不足を補填する流動性支援のみならずODAを含む日本独自の政策的金融手段を総動員し長期の安定的な資金を供与してアジア各国の実体経済の回復と安定化に対して全力で取り組んだ。
 中でも、IMF・世銀年次総会において発表された新宮澤構想は、アジア諸国の実体経済回復のための円借款・輸銀融資などによる中長期の資金支援を含む合計300億ドル規模の資金支援スキームを用意するものであり、一連の支援策の中でも最大級のものだった。
 この他にも、日本は、人材育成等環境整備のための専門家派遣、研修員受入などの技術協力や、食糧・医療品などの緊急支援および人道・医療・保健対策面での無償資金協力も行った(詳細は「外部リンク」参照)。



総評

 アジア通貨危機は関連諸国の経済を崩壊あるいは打撃を与えただけでなく、インドネシアのスハルト政権やタイのチャワリット・ヨンチャイユット内閣を失脚させた。のみならず、ジョージ・ソロスらヘッジファンドや IMF をはじめとした反欧米感情を招いた。アジア経済に対する不安感を招き、投資対象としての中国の台頭をも生んだ。
 さらに、ユーロダラーは「質への逃避」を起こし、ことごとくアメリカへ回帰。新興市場への不信感からロシア財政危機、ブラジル危機をも招いた。外国為替市場における通貨攻撃は循環的なブームを呈するようになり、2004年には日本の円に対してもヘッジファンドによる通貨へ投機的売買は仕掛けられているが日本政府による大規模市場介入によって防衛されている。
 また、アジア諸国では外国からの資本導入にあたり、IMF の推進してきた資本移動の自由化の下で、比較的短期の物を導入していたことも、問題拡大に繋がったと指摘されている。経済的に不安が生じた場合に流動性の高い資本が急速に流出し、傷口を広げたとされる。
 アジアの途上国では高成長を背景に高金利政策を採用していた一方で、90年バブルの崩壊以降米日の政策金利は極めて低利水準にあり、国際金融資本市場から短期資金を融通し、それを国内向けの資金にスワップ(長短金利スワップ)することは、為替変動リスクを考慮した上でも自国の民族資本による投資よりも有利であったところ、アジア通貨危機の発生により為替リスクの急騰と途上国向け短期金利が高騰したことが、長期資金の急速な枯渇と資金逃避をもたらした[11]。加えて IMF が融資の条件として景気後退期に緊縮財政や高金利政策を課したことが危機をより深刻なものとしたとの評価もある。
 東南アジア諸国の経済成長システムが、1990年代のアメリカ経済成長システムと著しく似通っていたのが、根本的な危機の要因であるとの評価もある。同じ投資過熱を起こす国であるなら、より信用のあるアメリカへと資本が逃避することになるため、東南アジア諸国の成長システムは経済のバランシング(見えざる手)により破壊されることになったとの見解もある。
 金融政策面ではアジア各国が事実上の固定相場制を採用していながら、各国独自の経済状況に合わせた金融政策と自由な資本移動を追求した結果としての国際金融のトリレンマの破綻が、典型的に大規模で非対称の通貨投機を招いたと分析されている[12]。中国が通貨攻撃の直接的影響を免れたのはトリレンマの理論上整合的であり、資本の自由移動を厳しく制限していたためである。



脚注

1.^ 三和総合研究所編 『30語でわかる日本経済』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2000年、249頁。
2.^ 対外経済政策総合サイト - タイ (Report). 経済産業省.
3.^ a b c d 論点1:アジア通貨危機発生時の我が国による支援は適時適切であったのか。[リンク切れ]
4.^ 韓国が通貨危機に際して1997年12月4日に IMF と合意した金融支援は総額580億ドル。このうち実際に支援が実施されたのは国際通貨基金の210億ドル、世界銀行の100億ドル、アジア開発銀行の40億ドル。これに加え、第二線準備として230億ドルが準備され、日本はその中で最大の100億ドルをコミットした。
5.^ 「通貨危機後のアジア経済の動向について」シンポジウムにおける斉藤国雄IMFアジア・太平洋地域事務所長の発言(平成11年3月12日)[1]
6.^ "アジア通貨危機後10年を考える". JBIC TODAY (国際協力銀行). 2007-09. Check date values in: |date= (help)
7.^ 三橋貴明 『韓国人がタブーにする韓国経済の真実』 PHP研究所、2011年。ISBN 978-4569796611。
8.^ 室谷克実 『日韓がタブーにする半島の歴史』 新潮社、2010年。ISBN 978-4106103605。
9.^ http://www.rieti.go.jp/jp/publications/rd/058.html
10.^ 柯 隆 (2001-12). 中国における金融国際化へのロードマップ —資本移動の自由化と人民元為替相場の展望 (Report). 富士通総研.
11.^ 池田正雄「アジア通貨危機の歴史的意義」、『研究紀要』第13巻、つくば国際大学、2007年、 1-17頁、 NAID 110006456856。
12.^ ロイター外国為替フォーラム、2012年9月26日 竹中正治(龍谷大学)[2]



関連項目

ポンド危機
メキシコ通貨危機
ロシア通貨危機
韓国通貨危機(2008年)
アジア通貨基金 - チェンマイ・イニシアティブ
ロングターム・キャピタル・マネジメント



外部リンク

アジア通貨危機クロニクル
http://home.att.ne.jp/red/roadster/NEKO/HOME/chronic.html

国際資本移動と通貨危機:アジア危機の再評価 『経済分析』(内閣府 経済社会総合研究所 刊行)
http://www.esri.go.jp/jp/archive/bun/bun170/bun165.html
bun165a.pdf
http://www.esri.go.jp/jp/archive/bun/bun170/bun165a.pdf
bun165b.pdf
http://www.esri.go.jp/jp/archive/bun/bun170/bun165b.pdf

我が国のアジア通貨危機支援の政策評価 (PDFファイル)
http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1022127/www.mof.go.jp/jouhou/hyouka/honsyou/14nendo/hyoukasho/sougouhyoukasho/tsukakenhoukokusho.pdf

外部評価「我が国のアジア通貨危機支援の政策評価」
http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1022127/www.mof.go.jp/jouhou/hyouka/honsyou/14nendo/hyoukasho/sougouhyoukasho/tsukakenhoukokusho.htm

アジア通貨危機支援評価
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hyouka/report/asia_tuka.html

アジア通貨危機における日本の対応
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/04_hakusho/ODA2004/html/column/cl01014.htm



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改訂履歴
なし

【研究ノート】 固定相場制、ブレトン・ウッズ協定


目次

1.固定相場制
2.ブレトン・ウッズ協定



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1.固定相場制

wikipedia-固定相場制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BA%E5%AE%9A%E7%9B%B8%E5%A0%B4%E5%88%B6

 固定相場制とは、各国政府間で為替レートを固定・維持する制度[1]。
 1944年に国際復興開発銀行(IBRD)と国際通貨基金(IMF)が設立され、自由貿易や資本移動の促進を目的に金1オンス=35ドルと定め、常にドルと金は交換可能とされた(ブレトン・ウッズ体制)[1]。ここにドルを国際通貨(基軸)とするIMF体制が確立された。しかし、1973年に先進各国は変動相場制へと移行した(ニクソンショック)[1]。



制度運営

 固定相場制を実現するためには、以下の二つの方法がある。

1.中央銀行が要求される為替をすべて受け入れる。
2.資金の移動を規制し、固定相場になるようにする。


 2005年7月までドルに対する実質的な固定相場制を採用していた中国は2.の政策を採っていた。
 また、1960年代末の日本は多少の規制があったものの基本的に1の政策を採っていた。
 当時の日本においては、将来的な円切り上げを見込んだドル短期資本の流入(円買い)に応えて日本銀行が円売ドル買介入をしていた。介入により固定相場制は維持できるが、市中に大量の円貨が出回る事態になる。これはティンバーゲンの定理が示すように、金融政策が為替相場の維持に用いられているため、金融政策による景気・物価の安定化が出来ない状態である。これにより金利は低下し信用創造の活発化を招くことになる。実際に、この時期列島改造ブームに乗って地価上昇を引き起こす引き金となった。

 このままでは過度に景気刺激的な金融政策となるため、金利を引き上げ金融引締を行いたいと中央銀行が考えたとしよう。しかし固定相場制度の下で金利を引き上げれば、短期資本流入→円貨流出→金利低下となってしまい、金利を引き下げることは出来ない(→「固定相場制からの制約」)。これを防ぐために短期資本流入を制限すれば、金融市場は閉鎖的となり、自由な資本移動が妨げられ、国際分業による利益を得ることができなくなる。
 このように、固定相場制・独立した金融政策・自由な資本移動の3つの政策は同時に実現することができない[2]。3つのうち、同時に2つしか実現できないのである(→「国際金融のトリレンマ」)[2]。

 そのため、日本は固定相場制を放棄した。中国も世界貿易機関(WTO)加盟後に同じ方向へ向かいつつある。(イギリスなど一部を除く)欧州連合(EU)諸国間においては、各国の『自由な金融政策』を放棄することで、固定相場制を維持している。この固定相場制とは、他ならぬ単一通貨「ユーロ」である。



特徴

 国際マクロ経済学で示されるように、開放経済体制の小国が固定相場制を採用した場合は、財政政策が有効で金融政策が無効になる(マンデルフレミングモデル)。



財政政策

 閉鎖経済体制の国が国民所得を改善しようと財政支出を増加させた場合、国民所得が増加すると同時に金利が上昇する。しかし、開放経済体制の場合は、小国の金利が世界基準金利を上回るために、国際資本が小国の通貨を買うことになる。
 固定相場制においては、国際資本の流入は通貨高をもたらすのでなく、国内のマネーサプライの増加をもたらし金利を低下させる。この金利低下によりクラウディングアウト効果が低下し国民所得が増加する。金利は世界基準金利に一致するまで低下し、クラウディングアウト効果はなくなる。



金融政策

 閉鎖経済体制の国が国民所得を改善しようと金融緩和を行った場合、国民所得・マネーサプライが増加すると同時に金利が低下する。さらに、開放経済体制の場合は、小国の金利が世界基準金利を下回るために、国際資本が小国の通貨を売ることになる。
 固定相場制においては、国際資本の流出は通貨安をもたらすのでなく、国内のマネーサプライの減少をもたらし金利を上昇させる。この金利上昇により民間投資が減少し国民所得が減少する。金利は世界基準金利に一致するまで上昇し、金融政策の効果を100%相殺する。



種類

・ドルペッグ制
・通貨バスケット制
・カレンシーボード制




脚注

1.^ a b c 高橋洋一 『高橋教授の経済超入門』 アスペクト、2011年、43頁。
2.^ a b 高橋洋一 『高橋教授の経済超入門』 アスペクト、2011年、44頁。



関連項目

・変動相場制
・円相場
・為替レート
・国際金融のトリレンマ



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2.ブレトン・ウッズ協定

wikipedia-ブレトン・ウッズ協定
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%83%E3%82%BA%E5%8D%94%E5%AE%9A

 ブレトン・ウッズ協定は、第二次世界大戦後半の1944年7月、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結され、1945年に発効した国際金融機構についての協定である。



概要

展開

 国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)の設立を決定したこれらの組織を中心とする体制である。
 この協定は1929年の世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済圏をつくって世界大戦をまねいた反省によっているだけでなく、第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的があった。そのため具体的には国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国の開発を行い自由で多角的な世界貿易体制をつくるため為替相場の安定が計られた。
 IMFについては、イギリスのケインズ案とアメリカのハリー・ホワイト案が英米両国の間で討議され、ホワイト案に近いものとなった。その際、ドルを世界の基軸通貨として、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めた(金本位制)。この固定相場制のもとで、日本円は1ドル=360円(変動幅±1%)[1]に固定された。
 この体制下で西側諸国は、史上類を見ない高度成長を実現。特に、日本は1950年代から1970年代初めにかけて高度経済成長を実現し「東洋の奇跡」とよばれた。



結末

 しかしその後、アメリカ合衆国と世界の諸国の経済や貿易や財政の規模が著しく増大し、金の産出量や保有量が、経済や貿易や財政の規模の増大に対応することが困難になった。1971年8月にニクソン・ショックによりアメリカはドルと金の交換を停止し、ブレトンウッズ体制は終了した。
 その後、1971年12月にスミソニアン協定でブレトンウッズ体制の骨格を維持しようとするも、1973年には本格的に変動相場制に移行し、ブレトン・ウッズ体制は完全に終結した。



学者の見解

 経済学者のジョセフ・E・スティグリッツは

「第二次世界大戦後から1973年まで続いたブレトン・ウッズ体制の下では固定相場制だったので、現在(2013年)のグローバル経済よりも安定していたことは確かであり、最近のアメリカの経済学者の中からブレトン・ウッズ体制を再評価する声も出ている。しかし、ブレトン・ウッズ体制は、各国の生産性にばらつきが出てきたときに、対応できなくなってしまった。その結果、ブレトン・ウッズ体制は崩壊し、変動相場制に移行した」

と指摘している[2]。



脚注

1.^ 『図解雑学 通貨と経済』p219 ナツメ社 野村茂治・著 2005年
2.^ ジョセフ・E・スティグリッツkotoba(コトバ) 2013年6月号



関連項目

・固定相場制
・国際金融のトリレンマ
・スミソニアン協定
・ワシントン・コンセンサス - ケインズ主義に基づく「ブレトン・ウッズ体制」の後[要出典]の、1971年から1973年の間の「スミソニアン体制」、1973年から1979年の間の過渡期を経て、1980年から今現在まで進行中の、新自由主義に基づく体制を「ワシントン・コンセンサス体制」という。
・バンコール
・ドル本位制



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改訂履歴
なし

【研究ノート】 変動相場制、ニクソン・ショック


目次

1.変動相場制
2.ニクソン・ショック
3.金融センター(国際金融センター)



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1.変動相場制

wikipedia-変動相場制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E5%8B%95%E7%9B%B8%E5%A0%B4%E5%88%B6

 変動相場制とは、為替レートを外国為替市場における外貨の需要と供給の関係に任せて自由に決める制度である[1]。フロートあるいはフロート制とも呼ぶ[1]。オンライン化された国際証券集中保管機関により運用される。



解説

 1944年から続いた固定相場制度の時代をブレトンウッズ体制という[1]。1971年8月15日、米国のニクソン大統領は自国のドル流失を防ぐため、ドルと金の交換停止を発表した(ニクソン・ショック)[1]。それを受け、1971年12月通貨の多国間調整(金1オンス=35ドル→38ドル、1ドル=360円→308円にドル切り下げ、円切り上げ)と固定相場制の維持が行われた。しかしこのスミソニアン体制は長続きしなかった。1973年に先進各国は相次いで変動相場制に切り替えた[1]。
 変動相場制は1976年1月ジャマイカのキングストンで開催されたIMF暫定委員会で承認された。これをキングストン体制という。



特徴

「マンデルフレミングモデル」も参照

財政政策

 閉鎖経済体制の国が国民所得を改善しようと財政支出を増加させた場合、国民所得が増加すると同時に金利が上昇する。しかし、開放経済体制の場合は、小国の金利が世界基準金利を上回るために、国際資本が小国の通貨を買うことになる。
 変動相場制においては、国際資本の流入は国内のマネーサプライの増加をもたらさず、通貨高をもたらすのみである。国際資本の流入によってバブルが発生するという通説のイメージからは違和感を受けるが、マネーサプライも増加せずかつ通貨高によって景気に減速圧力が掛かるのである。この通貨高により純輸出(総輸出-総輸入)が減少し国民所得が減少し、金利が低下する。金利は世界基準金利に一致するまで低下し、財政支出の効果を100%相殺する。[要出典]
 なお、この財政政策が相殺され無効となるプロセスにおいては、金利上昇を打ち消すように海外からの国際資本の流入が起こるため、金利上昇自体は観察されないことに注意が必要である(観察されるのは通貨高である)。すなわち、金利上昇が見られないことを以てして、財政政策は無効でなかった、あるいは国際マクロ経済学のモデルは成立していない、と言うことは誤りである。[要出典]



金融政策

 閉鎖経済体制の国が国民所得を改善しようと金融緩和を行った場合、国民所得・マネーサプライが増加すると同時に金利が低下する。さらに、開放経済体制の場合は、小国の金利が世界基準金利を下回るために、国際資本が小国の通貨を売ることになる。
 変動相場制においては、国際資本の流出は国内のマネーサプライの減少をもたらさず、通貨安をもたらす。この通貨安により純輸出(総輸出-総輸入)が増加し国民所得が増加し、金利が上昇する。金利は世界基準金利に一致するまで上昇し、金融政策の効果をさらに高める。



脚注

1.^ a b c d e 高橋洋一 『高橋教授の経済超入門』 アスペクト、2011年、43頁。
2.^ a b 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年[要ページ番号]
3.^ 三井高維編 『新稿 両替年代記関鍵 巻二考証篇』 岩波書店、1933年[要ページ番号]
4.^ 田谷博吉 『近世銀座の研究』 吉川弘文館、1963年[要ページ番号]



関連項目

固定相場制
円相場
金融センター
ブレトン・ウッズ協定
ニクソン・ショック
アジア通貨危機
経済


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2.ニクソン・ショック

wikipedia-ニクソン・ショック
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF

 ニクソン・ショックとは、1971年にアメリカ合衆国のリチャード・ニクソン大統領が電撃的に発表した、既存の世界秩序を変革する2つの大きな方針転換を言う。当初は前者(7月15日のショック)を指し、後者は「ドル・ショック」と言わていたが、その後後者もニクソン・ショックと呼ばれることが多く、両者を併せて「2つのニクソン・ショック」と呼ばれることもある。

・第1次ニクソン・ショック(ニクソン訪中宣言)は、1971年7月15日に発表された、ニクソン大統領の中華人民共和国への訪問を予告する宣言から、翌1972年2月の実際の北京訪問にいたる新しい外交政策をいう。→ニクソン大統領の中国訪問

・第2次ニクソン・ショック(ドル・ショック)は、1971年8月15日に発表された、ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた新しい経済政策をいう。→この頁で説明。

 ニクソン・ショック(ドル・ショック)とは、1971年8月15日(日本時間1971年(昭和46年)8月16日)にアメリカ合衆国政府が、それまでの固定比率(1オンス=35ドル)によるドル紙幣と金の兌換を一時停止[† 1]したことによる、世界経済の枠組みの大幅な変化を指す。当時のリチャード・ニクソン大統領がこの政策転換を発表したことにより、ニクソンの名を冠する。
 ショックと呼ぶのは、それまで金と交換できる唯一の通貨がドルであり、それ故にドルが基軸通貨としてIMF(国際通貨基金)を支えてきたのがブレトン・ウッズ体制であったが、ドルの金交換に応じられないほど米国の金保有量が減ったことにより、戦後の金とドルを中心とした通貨体制を維持することが困難になったこと、そしてこの兌換一時停止は諸外国にも事前に知らされておらず、突然の発表で極めて大きな驚きとともに、その後世界経済に大きな影響を与えたことによる。



概要

 1971年8月15日(日曜日)夜(日本時間8月16日(月曜日)午前)、ニクソン大統領は全米に向けたテレビ・ラジオの声明で新経済政策を発表した。これは当時国内から失業とインフレに対処する新たな措置が求められている状況の中で発表された。

 ニクソン大統領の声明の一部は以下の通り。

「……第二次大戦が終わった時、欧州とアジアの主要工業国の経済は疲弊していました。彼らのためにアメリカは過去25年間にわたり1,430億ドルの対外援助を行いました。それは正しいことでした。今日彼らは我々の援助に大きく助けられて活気を取り戻しました。彼らは我々の強力な競争相手であり我々は歓迎しています。しかし他国の経済が強くなった今、彼らが世界の自由を守るための負担を公平に分担すべき時期が来たのです。為替レートを是正して主要国は対等に競争する時です。もはやアメリカが片手を背中に縛られたまま競争する必要はないのです。……」

「……過去7年間、毎年1回は通貨危機が起きている。通貨危機で一体誰が利益を得たのか。労働者でも、投資家でも、富の真の生産者でもない。受益者は国際通貨の投機家です。彼らは危機で栄える故に危機を起こそうとしています。……」

「……最近数週間、投機家たちはアメリカのドルに対する全面的な戦争を行ってきた。……そこで私はコナリー財務長官に通貨の安定のためと合衆国の最善の利益のためと判断される額と状態にある場合を除いて、ドルと金ないし他の準備金との交換を一時的に停止するように指示した。……この行動の効果は言い換えればドルを安定させることにある。……IMFや我々の貿易相手国との全面的な協力の下で、我々は緊急に求められている新しい国際通貨制度を構築するために必要な諸改革を求めるだろう……」[1]

 この新しい経済政策で国内の失業対策(総額62億ドルの減税も含む)を除いて注目すべき主要な点は以下の3点である。

・金とドルの交換を一時停止[† 1]
・10%の輸入課徴金の導入[† 2]
・価格政策(90日間の賃金・物価凍結)[2][† 3]

 この新しい経済政策の金とドルの交換停止が、第二次世界大戦後の通貨の枠組みであったブレトン・ウッズ体制を解体することとなった。
 これはその当時有効なインフレ対策が打てず、ドルの信認が揺らぎドルの切り下げが避けられないことで、アメリカは深刻な通貨危機に直面していた[1]。そこでドルを防衛して少なくともアメリカ国益を損なわずに欧米各国と日本との多国間調整を一気に進めることを目的にしたものであった。そして4ヶ月後の1971年12月にドルの切り下げを容認して新しい固定相場でスミソニアン体制がスタートしたが、再びドル不安が再燃して各国とも固定相場制を維持することができず、それからわずか1年3ヶ月後に変動相場制に各国とも移行していった。



ショックの要因と推移

 第二次世界大戦が終りに近づいた1944年、米国ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズに連合国44か国の各国代表が集まって締結されたブレトン・ウッズ協定は、当時のアメリカ合衆国の経済力を中心として大戦後の世界経済の運営や国際通貨の管理を前提にしていた。
 大戦では本土が戦場とならず、各国への経済的支援を行いその軍事特需で富を蓄積して、戦後圧倒的な経済力を持ったアメリカが戦後の国際金融体制の中心に位置して、ドルだけが金と交換できる通貨として、他の国はドルとの交換比率を固定して、為替相場を固定することによって国際貿易を円滑にして経済活動を活発化させることが目的であった[3]。
 この協定に基づく国際金融体制をブレトン・ウッズ体制といい、アメリカが圧倒的な生産力を持って世界各国へ輸出することで稼いだ貿易黒字を源泉として蓄えた大量の金準備に裏打ちされたものであった。そして各国はブレトン・ウッズ体制の下で安定した国際貿易の利益を享受していた[3]。

 戦前は通貨発行量が希少金属である金の保有量に制約される金本位制であったが、戦後は金・ドル体制とも金為替本位制とも呼ばれ、実質的には金とドルを同じ基軸として置く体制で成り立ち、1950年代は戦後の復興と科学技術の発達による経済規模の拡大、国際貿易や国際投資の拡大、社会保障政策の普及、冷戦による恒常的な軍事費増などで、財政支出の恒常的拡大が進んでいった[4]。
 やがて西欧各国が次第に経済力を回復させて、また日本も高度経済成長でアメリカ以外の各国が経済発展していく中で、アメリカの手持ちのドルが海外へ流出するようになり、金と交換できるドルの絶対的価値が揺らぎ始めるのは60年代に入った頃であった。
 戦後各国が定めた通貨の固定為替レートは、アメリカを除いて、第二次世界大戦の主要な交戦国が戦争で著しく疲弊していた当時の世界の経済状況を前提に定められたレートであり、大戦直後に世界の金保有額の三分の二がアメリカに集中して、ドルの金交換に基づく固定相場制を原則としたIMF体制で成り立っていた。そして戦災から復興した国々の経済が発展するにつれて、固定為替レートは次第に各国の経済力・競争力から乖離した状況になり、50年代に入ると各国の通貨のドルに対する為替レートが英ポンドや仏フランの切り下げ、西独マルクの切り上げなど、その時々に応じた通貨調整を行ってきた。しかし60年代後半になると潜在的要因としてドルの凋落が見え始めていたのである。
 それまでの50年代にアメリカの海外への軍事支出、政府援助、政府借款が貿易収支の黒字分以上を占めて、1960年にはすでにドル危機と懸念される状況になった。アメリカ自体のドル交換に応じる金保有の割合は1948年の3.8倍から1960年には1.6倍に減少していた[† 4]。そこへ1965年のベトナム戦争介入による財政赤字とインフレで国際収支の赤字幅拡大によって1966年に初めて外国のドル準備がアメリカ財務省が保有する金保有額を上回る事態となった[5]。1968年頃からドル危機を潜在的要因としたマルクやフラン危機が顕在化して、1969年8月にフランは11.1%切り下げ、9月にマルクは9.3%切り上げられた。
 1971年当時の先進各国の経済力・競争力と比較して、アメリカのドルは現実の経済力・競争力よりも高い為替レートになり、対ドルの為替レートは現実の経済力・競争力よりも低い為替レートになり、アメリカは国際貿易において赤字を出す不利な状況であった。さらに海外に流出したドルは貿易黒字国の対外準備として蓄積されたため、インフレを加速させた[5]。こうした国際流動性の拡充で米国がドル債務を負う形でドルを供給し、ベトナム戦争もあってドルと交換できる金の準備額がもはや不足していた[6]。
 そして国際収支の赤字はそれ以前から続いていたが、1971年4月に貿易収支が初めて赤字となり、8月に入ってからフランス、8月13日にはイギリスがアメリカに対して30億ドルの金交換を要求した[7]。この時が金・ドル交換の停止を決定する引き金になった[5]。アメリカ政府は、金とドルがリンクした通貨体制(金・ドル本位制)を維持することがもはや困難になったと判断した。そのために起こる国内の事態急変を避けるため10%の輸入課徴金を掛け物価・賃金などを60日間凍結してその期間に各国との多角的調整をしてドルをアメリカにとって一番望ましい形に切り下げる[† 5]方向へ舵を切ったのである。

 1971年8月15日にニクソン大統領の声明が発表された後、欧州各国はまだ外国為替市場が開いておらず、即閉鎖を決定し結局23日に再開するまで1週間は市場を閉じたままであったが、日本はこの声明が出たのが8月16日の午前10時で、すでに外国為替市場が開いており、ドル売りが殺到し、日銀がドル買いに走り、日本の外貨準備高が一気に100億ドルの大台を超えるなど混乱したが、その後も市場を閉鎖することがなかった。
 西欧各国とも対応がばらばらで、西独は2ヶ月前に変動相場制に移行していたし、仏は二重相場制、英は上限変動相場制、オランダなどベネルクス3国は域内は固定相場制で域外は変動相場制をとっており、各国間の調整はつかなかった[8]。
 日本はその後10日余りは固定相場制を維持したが、あまりの為替市場の混乱に、1971年8月27日に外貨準備高が125億ドルに達して、この日の閣議で翌28日からやむなく変動相場制に移行することを決定した。1ドル360円の時代はこの日に終わった。ショックから12日後である。円の為替レートは前日までの360円から変動相場となった初日8月28日に342円となり、その後340円前後にとなり、年末までに320円前後を推移した[6]。



スミソニアン体制へ

 変動相場に移って以後、早く固定相場に戻るべきとして円の単独切り上げで固定相場を復活させる考え方もあったが、結局多国間での通貨調整が行われる見通しになった。そしてG10先進10か国蔵相会議を舞台にした多国間通貨調整は以降、9月半ばのロンドン、9月末からのワシントン、11月末のローマを経て12月半ばのワシントンで決着を付けることとなった。
 最初のロンドンでは米国が黒字国責任論を唱え黒字国の相当大幅な切り上げを求め、金に対する切り下げを拒否した。9月末からのワシントンでは大きな進展はなく米国に輸入課徴金の撤廃とドル切り下げを求める日欧と、あくまで貿易黒字国の責任を声高に主張する米国との対立は解けなかった。11月9日に来日したコナリー財務長官と首相との会談が11日に行われ、席上10%の輸入課徴金の廃止と同時に24%の円切り上げをとの話[† 12] が出ていた。
 11月末のローマでコナリーが初めてドル切り下げに言及して年内決着の見通しが出てくる中で12月12~13日に大西洋上のアゾレス諸島で行われた米仏首脳会談でニクソンとポンピドー大統領との間でニクソンはドルの切り下げを確約した。この頃には円の為替は320円を割って実質切り上げ率は12%になり、西独の実質切り上げ率を上回るようになっていた。
 12月15日に水田蔵相は佐藤首相を訪ね交渉前の最後の打合せを行った。首相は米国がドル切り下げに踏み切ったので「切り上げ巾も大巾でも余り影響混乱はないと思へる」としたが口頭では「然し14%台にとどめ度い」と蔵相に述べている。ただ別には「20%以下ならいい」と聞いたという話もあり、首相はドル切り下げで多少とも切り上げ率が高くなっても影響はないと考えている見方もできる。決着が付いた後の情報が入って「解決した事はとも角一安心」と日記に記している。[11]
 1971年12月17~18日、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館で先進10か国蔵相会議[† 13]が開かれ、ここでドルと金との固定交換レートを実質7.98%引き下げ(1オンス35ドルから38ドルへ)、米国の輸入課徴金10%の廃止、固定相場制を維持しつつそれまでの変動幅を上下1%から2.25%に拡大することとし、ドルと各国通貨との交換レートを国家間の多角的調整で決定された(スミソニアン協定)。このスミソニアン協定によって各国の対ドル為替レートが変更され、ここで固定為替相場に戻った[6]。
 その中で日本円は、従前の1ドル=360円から16.88%[† 14]切り上げされ1ドル=308円となった。この日本円の為替レートが決まると他のマルク以下のレートが決まって行った。この切り上げ幅は各国通貨の中でも最大で、他の国では西独が13.5%、英仏が8.57%、オランダが11.57%、伊が7.48%のそれぞれドルに対する切り上げとなり、この時に通過調整をした国は50か国に及んだ[8]。西独がそれまでに何度かの切り上げを行って、なお且つショック前に変動相場制に移行しており、日本はずっと360円の固定相場を維持して切り上げをしてこなかったことが、ここにきて日本だけ大幅な切り上げにつながったことは否めない。
 これを受けて、ニクソンショック後の8月28日から始まった変動相場制が、同年12月19日より再び固定相場制に戻り、なおかつ前日よりも円高の308円への切り上げ(ドルから見れば切り下げ)が実施された。しかし佐藤首相は自身の日記に12月21日付けで「水田君が八時半に来る。ほんとにご苦労でしたが苦労甲斐のある仕事で・・市場も堅調・・為替相場も平穏無事・・。下限に近く三百十四円程度・・・」と述べている。こうしてニクソン大統領は8月15日に大統領が発表した政策の最大の目的であったドルの大幅な切り下げに成功した。



スミソニアン体制崩壊

 しかし翌1972年3月になると当時のEC6か国(西独・仏・伊及びベネルクス3国、この当時の英は未加盟)が域内の国内通貨は固定相場とするが域外のドルに対しては固定相場を放棄して変動相場制に移行する措置[5]をとり、しかもドル売りの動きは止まらず、英国のポンドに投機で売り浴びせられて、6月23日にイギリスが変動相場制に移行。翌1973年になるとイタリアの政界混迷でイタリア人によるスイスフラン買いが増え、スイスフランが変動制に移行した。
 やがて投機はドルに向かい西独で連邦銀行がドルを買い支えたが市場閉鎖に追い込まれた。2月8日にボルカー財務次官が来日して愛知揆一蔵相と会談し、10%のドル切り下げで、円を10%切り上げるように要請して来た。愛知蔵相は日本が取れるのは円切り上げでなくフロートだと主張した。その後結局、日米独間の折衝で円は対ドルで17~20%切り上げに相当する1ドル257~264円で変動させることで合意が成立した。2月12日にシュルツ財務長官が記者会見でドルの10%切り下げを発表し、2月14日に円は変動制に移行した。
 これで一応スミソニアン体制は落ち着いたと思われたが、今度は金相場が暴騰し、マルクにも投機が集中し3月1日に西独連銀がドル買いでわずか1日で30億ドルに達し翌3月2日に閉鎖に追い込まれた。3月9日と16日にパリで主要14ヵ国の通貨会議が開かれたが、19日に市場が再開された時には殆どの国が共通フロートに踏み切っていた[12]。ここに至って、なし崩しに先進国ほぼ全てが変動相場制へと移行した。
 戦後、ブレトン・ウッズ体制が四半世紀続き、その後にスミソニアン体制を作ったがわずか1年3ヶ月しか維持できなかった。これは70年代に入ってから、アメリカはすでに固定相場制を維持できる経済力を失い、戦後から続いた国際金融体制で自国の国力を背景に統制することがもはや困難になったことを意味していた[3]。
 西欧各国と日本の台頭がアメリカ経済の衰退を招き、固定相場の安定が失われていった。日本も1973年2月に変動相場制に移行して以降、固定相場制に戻ることなく、1976年1月、ジャマイカのキングストンで行われた国際通貨基金 (IMF) 暫定委員会において、変動相場制が正式に承認された(キングストン協定)。この変動相場制の時代がそれから40年以上続き今日に至っている。
 そして、「1971年のニクソンショック以降、普通の価値を有していたドルが変動することになり、債権や株式、そして原油の先物市場がつくられ市場経済化が始まった。」[13]と言われるように、金融の自由化が進んで金融市場は拡大した。国際的な資本移動が活発化し、先進国の金融自由化とともに新興国向けの投資も増加し、新興国では外国資本を流入させるためにドルに対する固定相場制を維持する国もあった。このような状況によって、ブレトンウッズ体制の終了はドルの需要をより高める結果をもたらした[14]。



ニクソン不況

 この1971年8月15日のニクソン大統領の新経済政策の発表は世界中にショックを与えたが、このことが日本経済が不況に陥った原因だとすることは正確ではない。
 日本はすでにニクソンショックの1年前の1970年7月から景気後退期に入っており、ニクソンショックの頃はすでに不況であった。前年の大阪万国博の開幕で、それ以前の万博景気に沸いた反動が万国博覧会の開催中に現れてきており、景気動向指数からいくと、東京五輪が開催された1964年10月から景気後退期に入り(証券不況)、1年後の1965年10月に底をついて上昇に入り、それらが1970年7月まで続き(いざなぎ景気)、1970年7月をピークに景気後退期に入り(ニクソン不況)、1971年12月を底に再び上昇に入って列島改造ブームで1973年11月のオイルショックまで好景気になっている。57ヶ月続いた「いざなぎ景気」の後に「ニクソン不況」は17ヶ月続いた。
 ニクソン政権下のアメリカは、政権発足時から景気対策で好ましい成果を出せず、不況でインフレでしかも高い失業率で、なおかつ貿易収支が赤字に転落する1971年7月頃には明らかにニクソンの経済政策が失敗していると見なされていた。日本はこのアメリカの不況の影響をもろに受けていたのである[15]。
 「ニクソン不況」とは、このショック以前のニクソン政権の経済政策の失敗が原因で起こったことであり、「ニクソンショック」とは、この国内の不況と国際経済でのアメリカの役割を見直すカンフル剤として打ち出したもので、ショックが原因で不況になったわけではない。
 スミソニアン協定が締結されて、日本が1ドル308円で固定相場に戻った1971年12月に、日本国内では輸出産業が大打撃を受けると予想する向きもあったが、結果は皮肉にもこの1971年12月を底に景気は上昇期に入っていくのである。



エピソード

 世界を揺るがす経済政策の変更[† 15]が突然発表された時に、まだこの時点では欧州も市場が開いておらず、為替相場の混乱を回避する方策を検討し閉鎖する余裕があった。しかし日本はすでに為替市場が開いている時間であったので日本市場だけが混乱する1日となった。
 後にニクソン大統領は、1971年の金とドル交換停止の理由ひとつは「日本人につけをまわすため」[† 16]であり、1969年の沖縄返還交渉で、佐藤首相が約束した「日米繊維問題での誠意ある行動」すなわち繊維製品の輸出を包括規制する約束を実行しなかったこと[† 17]で「日本の首相にわざと恥をかかせた」[† 18]とした発言をしている[† 19][† 20]。
 この1971年夏頃にニクソン大統領が日本に対して相当怒っていたことは当時の駐米日本大使館審議官の岡崎久彦も読売新聞紙上でも述べており[16]、もう一つのニクソンショック(電撃的な中国訪問発表)と同じように事前に全く日本側に連絡が無かった[† 21]。
 前月の中国訪問の電撃発表ショックとあわせて、外交と経済の分野で、それまでには無かった新しい基軸でアメリカは動くことを内外に示したことになった。アメリカがソ連と中国との緊張緩和を図ろうとしたのは欧州やアジアの双方で封じ込め政策を遂行していくための費用をもはや負担しきれないことを認めたからである。
 ニクソンドクトリン、沖縄返還、戦略兵器削減、ヴエトナム戦争停止、輸入制限、新経済政策などは、いずれもアメリカが相対的衰退の時代に入り、アジアでの軍事的関与を削減するに際して「秩序ある移行」を確実にするためであった[17]。



脚注

注釈

1.^ a b この時点での声明は一時停止であったが、結局恒久的に兌換停止になった。
2.^ ニクソン・ショックを語る時に、金交換停止の側面が強く印象づけられて語られているが、当時の日本国内ではむしろ10%もの課徴金を課された側面の方が問題が大きいと見る向きが多かった。当時の日本の投資家が関心を示したのは国際金融体制の歴史的転換点というよりも、10%の課徴金とこの先の円切り上げが及ぼす輸出産業への影響であった。
3.^ この価格政策について、後にニクソン大統領自身が回顧録の中で「短期的には大きな支持を集めたが長期的には誤った政策だった」と振り返っている。しかし、この賃金・物価の凍結は段階的に縮小されたが結局3年近く継続されて、1974年春に完全撤廃されている。
4.^ 「そうだったのか アメリカ」(池上彰著、2005年10月発行、ホーム社) p.179 … 1949年のアメリカ政府の金保有額は245億ドルで、それが1970年には111億ドルになっていた。
5.^ 「そうだったのか アメリカ」(池上彰著、2005年10月発行、ホーム社) p.180 … ニクソン声明の本質は、ドルが世界の通貨を支えるという責任を放棄するとともに、ドルの切り下げをはかるというもの。
6.^ 前テキサス州知事。知事時代にケネディ第35代大統領暗殺事件で大統領と同乗して重傷を負い九死に一生を得た。この時は民主党員でニクソンの抜擢で財務長官に就任した。同じテキサス州出身のジョンソン第36代大統領とは親しく、後に共和党にくら替えして1980年大統領選挙に立候補したがレーガンに敗れた。その後政界を引退。コナリーの葬式には大統領を辞任したニクソンが参列している。
7.^ 後のFRB議長。『ボルカールール』の提唱者。
8.^ この大胆な経済政策は大胆さを好むニクソンをも驚かす内容であった。後にニクソンは「彼があれほど思い切った提案をするとは予測していなかった」と回顧録で述べている。
9.^ このCEAは大統領に助言するための経済学者が集められているが、歴代委員長には、その後グリーンスパン、バーナンキ、イエレンがFRB議長になっており、またこの時のFRB議長バーンズもかつてはCEA委員長であった。
10.^ 後にコナリーの後任として財務長官を務め、その後レーガン大統領時代に6年半にわたって国務長官を務めた。
11.^ この時のFRB議長バーンズは、米国が一方的に停止を先行させるのはまずいとして、金交換停止がまかり間違えば米国経済や資本主義の凋落を示す歴史的な事件になりかねない懸念を持っていた。
12.^ これは必ずしも要求ではなく話の中での駆け引きのようで、佐藤首相の日記には「一度には無理だと思ふと本人もいっておる」と記して交渉前の感触を探る動きであった。ちなみにこの後の記者会見でコナリーは「調整の幅について要請はしていない」と述べている。何とも勝手な話だが、翌12日に帰国前に急遽会いたいとのことで首相と会っている。礼儀上の帰国の挨拶の後に、「ケネディ大統領が暗殺された時の様子や当人のケガの様子等をきく」と日記に記している。
13.^ この会議が特異なのは、各国とも蔵相、中央銀行総裁、事務方の3名に出席が絞られてそれ以外の事務方の入場を制限したことである。ただ一行に加わった行天財務官室長は、日本語が正確に同時通訳されているかチェックするとして空いた通訳ブースに入り込み、傍聴できた。
14.^ この16.88%の切り上げ率は、スミソニアン会議2日目の全体会議の合間に、コナリーが水田に話し合いを求め、会議室の近くの標本室のような小さな部屋で、柏木顧問、行天財務官室長とが同席して行われた話し合いで決まった。この席で最初コナリーは18%台、水田は17%未満で平行線を辿った。水田は「17%という数字は日本にとって不吉な数字で、昭和初期の金本位制に戻った際の数字で、井上準之助蔵相はその時に暗殺された」といい、ケネディ暗殺に遭遇して自身も重傷を負った経験を持つコナリーはその「暗殺」という言葉でさすがのタフな交渉人もそれ以上は言えなかったという。コナリーからそれなら「いくらなら良いのか」と尋ねられて「308円」と答えてそこで了解が取れたという。「1971年~市場化とネット化の紀元~」 土谷英夫著 p.86 参照 
15.^ 一国の大統領の独断(アメリカ合衆国議会への提案も事前説明も無かった)といった意見もあるが、そもそも大統領には専権事項があり、当然独断で決断することが許される存在である。もう1つのニクソンショックもそうだが、独断だから出来たことである。しかもこの新経済政策は、10%の輸入課徴金を課すという自由経済の旗頭であるはずの超大国が保護主義そのもののタブーとされた政策をも加えており、あくまで一時的な緊急対策であって国内から反対は無かったし、ショック後のニューヨーク株式市場のダウ平均は前週の859ドルから、ニクソン演説の国内景気刺激策を好感して急騰して17日には900ドルに迫る動きであった。
16.^ 「日米関係は何だったのか」(マイケル・シャラー著、市川洋一訳、2004年発行、草思社) p.368 … ただしこの言葉は他からの引用で、Joan Hoff , Nixon Reconsidored (newyork 1994) から引用している。
17.^ 「昭和後期10人の首相」(山岸一平 著、2008年3月発行、日本経済新聞出版)p.69-71 … これはニクソン大統領と佐藤首相との間で認識にズレがあったと言われている。この翌年1970年6月に日米繊維交渉が決裂して、71年1月に自主規制案を出したが拒否されて、このニクソンショック後の1971年10月にようやく妥結している。当時日本側には何故アメリカがこのような規制をかけてくるのかが分からなかった。原因は1968年の大統領選挙でニクソン陣営が繊維業者の多い南部の票を取り込むために約束した選挙公約であったことである。
18.^ 「日米関係は何だったのか」(マイケル・シャラー著、市川洋一訳、2004年発行、草思社) p.400 … ただしこの言葉もジャーナリスト、ヘンリー・ブランドンからの引用である。
19.^ またそのニクソン発言を根拠に、「日本の終戦記念日を意図的に狙ったのではないか」とする見解も存在する(中村政則著『戦後史』(ISBN4-00-430955-7)p.140参照)。ただし声明は日本時間で8月16日午前10時で、またアメリカ人にとっての戦争が終わった日は8月15日ではなく8月14日である。
20.^ 2014年7月24日に外務省が公開した外交文書の中に、1971年3月12日付けでニクソン大統領が佐藤首相に送った書簡が公開され、この中で、日本側が自主規制案を出したことに「本当に驚いた」として「双方が満足できる交渉は不可能と思われる」「こうした方法であなたに手紙を書くことを遺憾に思う」と述べて、日本政府の対応を批判した書簡であった。
21.^ 「そうだったのか アメリカ」(池上彰著、2005年10月発行、ホーム社) p.180 … この日は定例閣議の日で、直前にロジャーズ国務長官から大統領の重大声明があるのでボイス・オブ・アメリカ (VOA) を聞いてほしいとの連絡があった。



出典

1.^ a b 世界史史料 第11巻 20世紀の世界Ⅱ(岩波書店) p.342-343
2.^ ドル体制の崩壊と日本経済(週刊東洋経済 1971年8月28日号)
3.^ a b c 現代アメリカ(土居丈朗著、2010年10月発行)p.61-64
4.^ U.S. Government Budget Fyscal Year 2014
5.^ a b c d 世界の金融史~貨幣・信用・証券の系譜~(入江恭平 著、悠書館) p.417-420
6.^ a b c 激動ニッポン経済100年(週刊東洋経済 2012年4月6日号) p.58-59
7.^ そうだったのか アメリカ(池上彰著、2005年10月発行、ホーム社) p.179
8.^ a b 昭和後期10人の首相(山岸一平 著、2008年3月発行、日本経済新聞出版) p.77
9.^ 「1971年~市場化とネット化の紀元~」 土谷英夫著 2014年1月発行 NTT出版 p.52-75 参照 
10.^ 「1971年~市場化とネット化の紀元~」 土谷英夫著 2014年1月発行 NTT出版 p.75-78 参照
11.^ 「1971年~市場化とネット化の紀元~」 土谷英夫著 2014年1月発行 NTT出版 p.78-84 参照 
12.^ 「1971年~市場化とネット化の紀元~」 土谷英夫著 2014年1月発行 NTT出版 p.93-96 参照 
13.^ 「文藝春秋」2015年1月号 「虚構の成長戦略」資本主義は死んだ 日本大学教授 水野和夫 
14.^ 小林正宏・中林伸一『通貨で読み解く世界経済』中央公論新社〈中公新書〉2010年。
15.^ 「世界歴史体系~アメリカ史2~」432P [ニクソニミクスと新経済政策] 有賀貞 編著 山川出版 1993年7月発行
16.^ 時代の証言者(読売新聞 2014年6月17日 第14面)
17.^ 日米関係は何だったのか(マイケル・シャラー著、市川洋一訳、2004年発行、草思社) p.368



関連項目

・金本位制
・変動相場制
・円切上げ
・ニクソン大統領の中国訪問
・ウォーターゲート事件



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3.金融センター(国際金融センター)

wikipedia-金融センター
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%9E%8D%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC

 金融センターは、銀行、証券会社、保険会社など金融業において中心的な役割を持つ市場・都市・地域のことである。有力な証券取引所が所在し、外国為替市場などの国際金融取引が特に活発に行われている場を国際金融センターと呼ぶこともあり、その代表格としてニューヨークやロンドンが挙げられる。



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国際金融センター発展指数

 2014年11月、アメリカのダウ・ジョーンズ、シカゴ・マーカンタイル取引所及び中国の新華社は、第5回目の国際金融センター発展指数(International Financial Centers Development Index)を公表した[1]。世界主要45の金融センターを評価の対象としており、「金融市場」、「成長・発展」、「物的サポート」、「サービス」、「環境」の5分野の総合評価により順位を決めている。総合評価では4年連続でニューヨークが首位となり、以下ロンドン、東京が続いた。

順位
金融センター
ポイント
1アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク87.72
2イギリスの旗 ロンドン86.64
3日本の旗 東京84.57
4シンガポールの旗 シンガポール77.23
5香港の旗 香港77.10
5中華人民共和国の旗 上海77.10
7フランスの旗 パリ64.83
8ドイツの旗 フランクフルト60.27
9中華人民共和国の旗 北京59.98
10アメリカ合衆国の旗 シカゴ58.22



世界金融センター指数

 世界金融センター指数(Global Financial Centres Index, GFCI)は、イギリスのシンクタンクZ/Yenグループが2007年3月に調査を開始した金融センターの国際的競争力を示す指標である。年に二度(3月・9月)リポートを公表しており、2015年9月に第18回目となる最新版を発表した[2]。 84の都市・地域を評価の対象にしており、首位はロンドンとなった。

順位
金融センター
ポイント
1イギリスの旗 ロンドン796
2アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク788
3香港の旗 香港755
4シンガポールの旗 シンガポール750
5日本の旗 東京725
6韓国の旗 ソウル724
7スイスの旗 チューリッヒ715
8カナダの旗 トロント714
9アメリカ合衆国の旗 サンフランシスコ712
10アメリカ合衆国の旗 ワシントンD.C.711




その他

・2012年10月、世界経済フォーラム(WEF)が発表した国・地域別の2012年版の「金融発展度リポート」によると、香港が2年連続で世界一となった。2位にアメリカ、3位にイギリスが続いた[3]。

・国際決済銀行は、2013年4月に1日当たりの外国為替の売買高を公表した[4]。世界で最も大きい国・地域はイギリスであり、1日当たり2兆7260億ドルと圧倒的な規模を誇り、世界の4割以上を占めている。2位に1兆2630億ドルのアメリカ、3位に3820億ドルのシンガポール、4位に3740億ドルの日本、5位に2750億ドルの香港が続いた。

・2015年7月終了時点において、世界で最も時価総額が大きい証券取引所は、ニューヨーク証券取引所で、約19兆3516億ドルである[5]。2位はNASDAQ OMXグループ(NASDAQとOMXの統合企業。各取引所個別の数値は非公開)で約7兆4735億ドル、3位に約4兆9851億ドルの東京証券取引所、4位に約4兆8392億ドルの上海証券取引所、5位に約4兆2423億ドルのロンドン証券取引所が続いた。



関連項目

世界都市
金融市場
タックス・ヘイヴン
オフショア金融センター
プライベート・バンキング



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改訂履歴
なし

【研究ノート】 在日の在留カード、特別永住者カード


目次

1.更新義務
2.携帯義務



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1.更新義務

「【日本再生計画・番外編】 在日の恐怖を考える」
http://yomeinomatome.blogspot.jp/2015/12/blog-post_15.html



Q70.永住者が在留カードの交付申請期限を過ぎても外国人登録証明書から在留カードへの切換えを行わなかった場合,罰則等はありますか。
A.永住者の方でも,お持ちの外国人登録証明書が在留カードとみなされる期間(Q19参照)を経過しても在留カードの交付の申請をしなかった場合,1年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処せられることがあります。また,これに違反して懲役に処せられたときは退去強制事由に該当することになります。



信濃注:

「ホーム >> 特別永住者の制度が変わります! >> Q&A特別永住者の制度が変わります!よくある質問」、法務省入国管理局
http://www.immi-moj.go.jp/newimmiact_2/q-and-a.html
 Q16:外国人登録証明書が特別永住者証明書とみなされる期間を過ぎても切替えを行わなかった場合,罰則等はありますか。
A.特別永住者の方がお持ちの外国人登録証明書は一定の期間特別永住者証明書とみなされますが(Q10参照),その期間が経過しても特別永住者証明書の交付の申請をしなかった場合,1年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処せられることがあります。

(以上)



 カード未更新は犯罪です。懲役または罰金とありますが、「懲役」の方が先に記載されているのが気になります。また、法務省が「これからの日本の暮らしに通名は必要な情報ではない」と明言して、通名の社会的価値を事実上無効化することがわかりました。
 日本は「大嫌韓時代」に突入していますが、嫌韓という社会の流れを抜きにしても、日本のコミュニティは「他者」に対して敏感です。「あ、日本人じゃなかったのね…」となれば、多かれ少なかれ一定の距離が生まれることは必然です。日本人のように受け入れられていた日常の喪失は、そこそこの恐怖だと思います。



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2.携帯義務

「【日本再生計画・番外編】 在日の恐怖を考える」
http://yomeinomatome.blogspot.jp/2015/12/blog-post_15.html



Q&A在留管理制度よくある質問
http://www.immi-moj.go.jp/newimmiact_1/q-and-a.html
Q41. 在留カードは常に携帯していなければいけませんか。また,携帯していない場合にどのような問題(罰則)がありますか。
A.在留カードは常時携帯することが必要で,入国審査官,入国警備官,警察官等から提示を求められた場合には,提示する必要があります。在留カードを携帯していなかった場合は20万円以下の罰金,提示に応じなかった場合は1年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処せられることがあります。



信濃注: 特別永住者カードの携帯義務
http://www.immi-moj.go.jp/newimmiact_2/q-and-a.html

Q4:特別永住者証明書は常時携帯する必要がありますか。
A.特別永住者証明書は常時携帯する必要はありません。ただし,入管職員等から特別永住者証明書の提示を求められた場合には,例えば,保管場所まで同行するなどして,提示することが必要です。

Q5:特別永住者については,旅券及び特別永住者証明書の携帯義務がなくなりますが,例えば,住居地が大阪の者が,所用で東京に来ていた際に警察官から職務質問を受けて,特別永住者証明書の提示を求められた場合に,当該証明書は自宅に置いてきたままであり,持っていれば提示を行っていたものであり,提示を拒むつもりはない場合であっても,罰則の対象となるのですか。
A.特別永住者証明書の提示拒否罪が成立するのは,権限を有する者から提示を求められたにもかかわらず,提示を拒否する旨の意思を外形的に明らかにしたような場合や,合理的期間内に敢えて提示をしないような場合等,その意思をもって提示を拒んだといえる場合です。
 この合理的期間は,具体的事案における個別の事情に応じて判断されることになりますが,その事情の例としては,特別永住者証明書の提示を求められた場所とその保管場所との位置関係,提示の支障の有無及びその程度等が考えられます。なお,特別永住者証明書でなくとも,当該特別永住者の身分関係等の確認が可能な他の代替的な手段がある場合には,あえて特別永住者証明書の提示を求めないことも考えられます。

Q6:特別永住者証明書は常時携帯の義務がないということですが,身分証明書であれば運転免許証がありますし,特別永住許可書も持っているので,特別永住者証明書は必要ないと考えているのですが,それでも受け取らなければなりませんか。受け取らない場合に罰則はありますか。
A.不法滞在者が多数存在する状況においては,本邦に在留する特別永住者の方についても,特別永住者であることや,他の外国人の方と同様に,その身分関係等を把握する必要が生じる場合があることから特別永住者証明書を交付することとし,その受領義務が課せられています。
 なお,特別永住者証明書の受領義務に違反した者は,1年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処せられることがあります。
(信濃注、以上)



 「日本で暮らす以上は肌身離さず持っていなさいよ、持っていないこと自体が罪になりますよ」。
 これは、「日本人か、そうでないか」を明確に識別する必要があるとき…例えば日本の「有事」の際に自国民か敵国人かを識別するときなど…に必要ということです。余命ブログの読者の皆様なら、政府が「日韓紛争」「朝鮮戦争」を想定しているんだな、ということがわかるかと思います。
 日本が有事という事態になれば、戦時国際法に則った対処で敵国人である在日の「文民」は保護収容になります。しかし韓国の憲法は、下記のように定めています。

大韓民国憲法第39条
全ての国民は法律が定めるところにより国防の義務を負う。

 日韓開戦時は敵国内韓国人同胞つまり在日は、自動的に老若男女が軍属として動員されます。



信濃注:
 特別永住者カードは「常時携帯義務なし、ただし、保管場所まで行ってでも提示義務あり」
 これは居住実態の把握が目的ではないでしょうか。
もちろん、有事には常時携帯していないと身分証明ができません。
 ただし、有事の身分証明書携帯は日本人も同じことです。顔だけでは敵味方の区別がつきません。余計な疑いを持たれないためにも、余命さんが言う「戸籍謄本」を含めて、有事の身分証明書携帯は必須でしょう。
(以上)



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改訂履歴
なし

【研究ノート】 ドルペッグ制、通貨バスケット制、カレンシー・ボード制


目次

1.ドルペッグ制
2.通貨バスケット制
3.カレンシーボード制

(いずれも固定相場制の一つ)



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1.ドルペッグ制

wikipedia-ドルペッグ制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%83%83%E3%82%B0%E5%88%B6

 ドルペッグ制とは、自国の貨幣相場を米ドルと連動させるペッグ制(固定相場制)をさす[1]。



概要

 経済基盤の弱い国・政情不安定な開発途上国の場合、それらの要因を敏感に反映し自国の貨幣相場が不安定な変動となりがちであるため、自国への海外投資や安定した経済運営を阻害し、取引を行う国々にとっても他国通貨による大きな不安定リスクの影響を受けることになる。
 こうしたリスクへの対処と通貨相場の安定を目的として、自国の通貨レートを経済的に関係の深い大国の通貨と連動させるペッグ制が採用され、その中で主要な基軸通貨である米ドルと連動させる場合を特にドルペッグ制とよぶ。ドルペッグ制を採用する代表例には香港ドルなどがある。ドルペッグ制を採用する国々では、自国への海外資本流入を目的に、金利に関して米ドルよりも高い金利を設定するケースが多い。



メリット

 基軸通貨である米ドルとシンクロ(連動)させることで、自国通貨の安定をもたらし不安定な自国通貨変動リスクを防ぐ



デメリット

 アメリカ合衆国の金利政策と連動しているため、自国の通貨政策に対する裁量の余地が乏しく、また自国の経済実態と乖離して米ドル高が進行した場合、自国の通貨政策と経済運営に多大な影響を及ぼすリスクがある(例:アジア通貨危機)[2]



採用している通貨

香港ドル(一定範囲内での変動を認めている)
エルサルバドル・コロン
パナマ・バルボア(硬貨のみ)
中東産油国(クウェートは2007年5月に撤退)

 なお、マカオ・パタカは香港ドルとのペッグ制を採用しており、実質的には米ドルペッグ制を採用している状態となっている。



注釈

1.^ ペッグ(peg)とは直訳すると「釘で固定する」の意であり、転じて通貨制度では固定相場制をさす。
2.^ (アジア通貨危機)1997年に発生した、アメリカのITバブルに伴うドル高に端を発したアジア諸国における一連の通貨高騰と暴落および固定相場制から変動相場制への移行をさす。当時、ドルペッグ制もしくは実質的に大半をドルに連動させる通貨バスケット制を採用していたアジア諸国に対して、安い人件費を目的に海外投資が集中していたが、米ドル高を背景に自国通貨が相対的に高騰し、相対的な価格競争力が低下していった。この結果、米ドル高のさらなる進行をきっかけに海外投資が一気に縮小、固定相場制から変動相場制への移行を余儀なくされた(詳細は「アジア通貨危機を参照のこと)。



関連項目

・ペッグ制
・通貨バスケット制 - ペッグ制と似ているが、複数の主要通貨による通貨相場の安定を目的とする点が異なる。
・固定相場制 - 金本位制
・変動相場制
・アジア通貨危機



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2.通貨バスケット制

wikipedia-通貨バスケット制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E8%B2%A8%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E5%88%B6

 通貨バスケット制は、自国の通貨を複数の外貨に連動したレートにする固定相場制のことである。



概要

 外貨の構成比率は貿易比率によって決めるのが一般的である。1985年をピークに採用国数は減少傾向になった。その後、メキシコ通貨危機やアジア通貨危機が発生したため、近年見直されつつある。
 先進国等、経済規模が大きい国では主に変動相場制が用いられており、そのレートは比較的大きく変動している。そのため貿易比率がある程度分散している場合、一国の通貨に連動する体制を取ったのでは他の貿易相手国との為替レートが大きく変動してしまう。それをある程度緩和できるというメリットがある。近年では2005年に中華人民共和国が採用した。ただし、通貨危機に耐えられるのは自由変動相場制かカレンシーボード制だけであるという考えもある。



デメリット

・通貨の構成比の計算方法や、市場介入が複雑になる。

 ただし、固定相場制を導入している国は経済規模が小さい場合が多いので市場介入は一つの通貨に対してのみで良いと思われる。介入が小規模の場合、外貨間のレートに及ぼす影響は限定的だからである。実際にシンガポールでは米ドルにのみ介入を行っているようである。

・透明性が損なわれる。

 通貨バスケットの計算方法を公表すると透明性が得られると思われる。チリ(1999年9月3日に変動相場制に変更)では実際に公表されていた。しかし、不透明である方が投資家からの攻撃を受けにくいとの指摘もある。



通貨バスケット制を用いている国

シンガポール
ロシア
マレーシア
中華人民共和国(2010年6月21日より、米ドルとの連動が解除される。[1])
ジンバブエ



関連項目

固定相場制



脚注

1.^ http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2010061900338 人民元、対ドル連動を解除=中国人民銀-週明けから切り上げか、2010年6月20 時事通信社



参考文献

財務省委嘱調査・研究会
http://www.mof.go.jp/jouhou/kokkin/tyousa.htm


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3.カレンシーボード制

wikipedia-カレンシーボード制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%89%E5%88%B6

 カレンシーボード制とは、為替政策の一つ。端的に言えば、国内に流通する自国通貨に見合っただけのドルを中央銀行が保有するという制度。その結果、自国通貨は100%、中央銀行の保有するドルにバックアップされるため、為替レートを固定するという政策に信認がもたらされる。中央銀行は自国通貨の流通量に見合ったドルの保有を義務づけられる為、無秩序に通貨増発が出来なくなる。



採用通貨

 香港ドル は1983年以来、米ドルに対して1米ドル=7.8HKD(7.75~7.85の小幅レンジで変動)のペッグ制をとっている[1]。香港の米ドルペッグ制はカレンシーボード制であり、1香港ドルの発行ごとに相当する米ドルが裏付けられるように、発券銀行であるHSBC、スタンダード・チャータード銀行、中国銀行が香港ドル銀行券を発行する際、相当額の米ドルを香港通貨当局に預託している[1]。



出典

1.^ a b 張(2012年)74ページ



参考文献

張秋華著、太田康夫監修『中国の金融システム 貨幣政策、資本市場、金融セクター』(2012年)日本経済新聞出版社



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改訂履歴
なし