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2015年12月16日水曜日

【良作紹介】 美しい日本の国歌 君が代特集


君が代は千代に八千代に
さざれ石の巌(いわお)となりて
苔のむすまで

Japanese National Anthem Kimigayo
斎藤秀三郎(さいとう ひでさぶろう)訳
明治・大正期を代表する英語学者・教育者

May the glorious glorious reign
Last for ages,myriad ages
Till the tiny small pebble
Into mighty rocks shall grow
Hoary moss shall overgrow them all


オーケストラによる演奏、美しい日本の景色とともに
日本国国歌 君が代 Japanese National Anthem Kimigayo (HD)
https://www.youtube.com/watch?v=h0j5lClcdmU
WJF Project (main) 様、2011/11/11 に公開


雅楽による演奏、竜笛: 芝祐靖、笙:宮田まゆみ
[HD] 日本国国歌 君が代 長野五輪開会式 National Anthem of Japan, 1998 Nagano
https://www.youtube.com/watch?v=ZJW3gyENF5A
Mintaka Alnilam 様、2015/08/06 に公開


戦前の「君が代」斉唱 / National Anthem of Japan in 1940  
https://www.youtube.com/watch?v=MCRqJIUS-EQ
Mm Japanese 様、2015/06/27 に公開





wikipedia-君が代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%8C%E4%BB%A3

 君が代(きみがよ)は、日本国の国歌である。「天皇の治世」を奉祝する歌であり[1][2]「祝福を受ける人の寿命」を歌う和歌を元にしている[1]
 歌詞は10世紀初めに編纂された『古今和歌集』の短歌の一つ[3]。曲は1880年(明治13年)に付けられた。日本の国歌として「君が代」が採用されたのも1880年(明治13年)のことである。ただし、このときは法律では定められなかった。国歌のテーマは皇統の永続性である。
 以後、国歌として歌われ続け、1999年(平成11年)、「国旗及び国歌に関する法律」(国旗・国歌法)で正式に国歌として法制化された。
(以上、抜粋の上で一部編集)



歴史(制定までの経緯)

日本における君が代の認識

 国歌 (national anthem) は近代西洋において生まれ、日本が開国した幕末の時点において外交儀礼上欠かせないものとなっていた。そういった国歌としての有り様は、1876年(明治9年)に海軍楽長の中村祐庸が海軍軍務局長宛に出した「君が代」楽譜を改訂する上申書の以下の部分でもうかがえる。

「(西洋諸国において)聘門往来などの盛儀大典あるときは、各国たがいに(国歌の)楽譜を謳奏し、以てその特立自立国たるの隆栄を表認し、その君主の威厳を発揮するの礼款において欠くべからざるの典となせり」[5]

 つまり、国歌の必要性はまず何よりも外交儀礼の場において軍楽隊が演奏するために生じるのであり、現在でも例えばスペイン国歌の「国王行進曲」のように歌詞のない国歌も存在する。しかしそもそも吹奏楽は西洋のものであって明治初年の日本ではなじみがなく、当初は "national anthem" の訳語もなかった。国歌と訳した[注 2]ものの、それまで国歌は和歌と同義語で漢詩に対するやまと言葉の歌(詩)という意味で使われていたため "national anthem" の意味するところはなかなか国民一般の理解するところとならなかった[5]。
 こういった和歌を国民文学とする意識からすれば日本においては一般に曲よりも歌詞の方が重要視され、国歌「君が代」制定の経緯を初めて研究し遺作として『国歌君が代の由来』を残した小山作之助もまずは歌詞についての考察から始めている。

和歌としての君が代

テキストと作者

 作者は文徳天皇の第一皇子惟喬親王に仕えていたとある木地師で、当時は位が低かったために詠み人知らずとして扱われるが、この詞が朝廷に認められたことから、詞の着想元となったさざれ石にちなみ「藤原朝臣石位左衛門」の名を賜ることとなる。[要出典]
 歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが古今集のテキストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。

我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

 「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものなどが最も古といえる(巻下祝、国歌大観番号775番)[6][7]。
 『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかと推測されている[8]。
 なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた[8]。

解釈

 万葉集などでは「君が代」自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉である。転じて「わが君の御代」となる。国歌の原歌が『古今和歌集』の賀歌であるため、そもそも「我が君」の「君」とは天皇なのかどうかということがしばしば問題にされる。
 『古今和歌集』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」ということであり、それ以上はなにも断定できない[9]。
 『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人[注 3]の具体的な祝い(ほとんどが算賀だが出生慶賀もある)に際して詠まれたものだが、最初の4首は読み人知らずで作歌年代も古いと見られ歌が作られた事情もわからない。その中の1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものとも考えられる[10]。
 これはあくまでも『古今和歌集』賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると朗詠は詠唱するものでありどういう場で詠唱されたかという場の問題が大きく出てくる。さらに後世、初句が「君が代は」となりさまざまな形で世に流布されるにつれ歌われる場も多様となり解釈の状況が変わっていくことは後述する。
 ちなみにそういった後世の状況の中にあっても、はっきりこの歌の「君」が天子であるとする注釈書も存在する。『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』[注 4]である。堯智は橘清友を作者として初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しているので少なくとも17世紀半ばの江戸時代前期において天皇の御世を長かれと祝賀する歌であるとする解釈が存在したことは確かである[5]。
 『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば、「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かう中で勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている[10]。

国歌になるまでの君が代

 元々は年賀のためであったこの歌は、鎌倉期・室町期に入ると、おめでたい歌として賀歌に限られない使われ方が始まり、色々な歌集に祝いごとの歌として収録されることになる。仏教の延年舞にはそのまま用いられているし、田楽・猿楽・謡曲などには変形されて引用された。一般には「宴会の最後の歌」「お開きの歌」「舞納め歌」として使われていたらしく、『曽我物語』の曽我兄弟や『義経記』の静御前などにもその例を見ることができる。

明治維新から「君が代」制定まで

 1869年(明治2年)に設立された薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山弥助(後の大山巌、日本陸軍元帥)が受け、大山の愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された[6][13]。
 当初フェントンによって作曲がなされたが洋風の曲であり日本人に馴染みにくかったため普及せず、1876年(明治9年)に海軍音楽長である中村祐庸が「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を提出。翌年に西南戦争が起き、その間にフェントンが任期を終えて帰国、その後1880年(明治13年)に宮内省式部職雅樂課の伶人奥好義がつけた旋律を一等伶人の林廣守が曲に起こし、それを前年に来日したドイツ人の音楽家であり海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが西洋風和声を付けた[6][7][13]。同年10月25日に試演し、翌26日に軍務局長上申書である「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され国歌としての「君が代」が改訂。11月3日の天長節にて初めて公に披露された[7][13]。
 その後の1893年(明治26年)8月12日には文部省が「君が代」等を収めた「祝日大祭日歌詞竝樂譜」を官報に告示[7][14]。林廣守の名が作曲者として掲載され、詞については「古歌」と記されている[14]。また1914年(大正3年)に施行された「海軍禮式令」では、海軍における「君が代」の扱いを定めている[7]。以来、「君が代」は事実上の国歌として用いられてきた。
 1903年(明治36年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、「君が代」は一等を受賞した[15]。



国歌としての君が代

第二次世界大戦前

 大山らが登場させて後は専ら国歌として知られるようになった「君が代」だが、それまでの賀歌としての位置付けや、大日本帝国憲法によって天皇が「万世一系」で「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」していた時代背景から、第二次世界大戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。
 修身の教科書には「君が代の歌は、天皇陛下のお治めになる御代は千年も万年もつづいてお栄えになるように、という意味で、国民が心からお祝い申し上げる歌であります。」と記された[16]。このように記述している文献もあるのだが、現存する教科書にこの様に印刷されている物は一つも確認されていない。
 また戦前、戦中を通して主に歌われていたのは「第二国歌」や「準国歌」とも言われる「海行かば」であり、君が代の様に「君」と言う広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない言葉ではなく、大君と天皇又は皇室のみを表す言葉が使用されている。

第二次世界大戦後

 第二次世界大戦後には、連合国軍総司令部(GHQ)が日本を占領し、日の丸掲揚禁止とともに、君が代の斉唱を全面的に禁止した[17]。その後GHQは厳しく制限しつつ、ごく特定の場合に掲揚・斉唱を認め[17]、1946年(昭和21年)11月3日の憲法公布記念の式典で斉唱された[18]。しかし、半年後の1947年(昭和22年)5月3日に開催された憲法施行記念式典では「君が代」でなく憲法普及会が選定した国民歌「われらの日本」(作詞・土岐善麿、作曲・信時潔)が代用曲として演奏されている[18]。
 「君が代」の歌詞について、第二次世界大戦前に「国体」と呼ばれた天皇を中心とした体制を賛えたものとも解釈できることから、一部の国民から国歌にはふさわしくないとする主張がなされた。例えば読売新聞は1948年(昭和23年)1月25日の社説において、「これまで儀式に唄ったというよりむしろ唄わせられた歌というものは、国家主義的な自己賛美や、神聖化された旧思想を内容にしているため、自然な心の迸りとして唄えない。」とした上で「新国歌が作られなくてはならない。」と主張した[19]。
 日本国政府の公式見解は、国旗国歌法が提出された際の1999年(平成11年)6月11日の段階では、「『君』とは、『大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。』、(「君が代」の歌詞は、)『日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である』」としたが、そのおよそ2週間後の6月29日に、「(「君」とは)『日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す』、『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のこととなる』、(君が代の歌詞を)『我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当』」と変更した[20]。
 学校・教育現場では、1946年(昭和21年)に国民学校令施行規則から「君が代」合唱の部分が削除されたが、「祝日には学校や家庭で日の丸掲揚、君が代斉唱することが望ましい」とする、文部省の天野貞祐文部大臣「談話」が1950年(昭和25年)10月17日に全国の教育委員会に通達され、1958年(昭和33年)学習指導要領に「儀式など行う場合には国旗を掲揚し、君が代を斉唱することが望ましい」と記載されたことなどから[21]、学校で再び日の丸掲揚・君が代斉唱が行われるようになり、これに反対する日本教職員組合等との対立が始まった。
 その後、学習指導要領は「国歌を斉唱することが望ましい(1978年)」、「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする(1989年)」と改訂され、現在は入学式・卒業式での掲揚・斉唱を義務付けている[22]。

現状

詳細は「日本における国旗国歌問題」を参照

 君が代は、国旗国歌法によって公式に国歌とされている。法制定以前にも、1974年(昭和49年)12月に実施された内閣府・政府広報室の世論調査[注 5]において、対象者の76.6%が「君が代は日本の国歌(国の歌)としてふさわしい」と回答する一方で、「ふさわしくない」と回答したのは9.5%だった[23]。



関連する楽曲

・君が代
・君が代行進曲
・唱歌版君が代
・箏曲・君が代変奏曲(宮城道雄作曲)
・信号ラッパ譜・君が代(戦前の陸軍・海軍のバージョン違いの2種類に、戦後制定のものの3種類存在する)
・皇子さま(久保田宵二作詞、佐々木すぐる作曲) - 今上天皇が生まれた時の奉祝の歌のひとつとして発表された。
・君が代(忌野清志郎)
・「君が代」の主題によるパラフレーズ 作品96(アレクサンドル・グラズノフ)



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改訂履歴
なし

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