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2015年12月13日日曜日

【研究ノート】 変動相場制、ニクソン・ショック


目次

1.変動相場制
2.ニクソン・ショック
3.金融センター(国際金融センター)



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1.変動相場制

wikipedia-変動相場制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E5%8B%95%E7%9B%B8%E5%A0%B4%E5%88%B6

 変動相場制とは、為替レートを外国為替市場における外貨の需要と供給の関係に任せて自由に決める制度である[1]。フロートあるいはフロート制とも呼ぶ[1]。オンライン化された国際証券集中保管機関により運用される。



解説

 1944年から続いた固定相場制度の時代をブレトンウッズ体制という[1]。1971年8月15日、米国のニクソン大統領は自国のドル流失を防ぐため、ドルと金の交換停止を発表した(ニクソン・ショック)[1]。それを受け、1971年12月通貨の多国間調整(金1オンス=35ドル→38ドル、1ドル=360円→308円にドル切り下げ、円切り上げ)と固定相場制の維持が行われた。しかしこのスミソニアン体制は長続きしなかった。1973年に先進各国は相次いで変動相場制に切り替えた[1]。
 変動相場制は1976年1月ジャマイカのキングストンで開催されたIMF暫定委員会で承認された。これをキングストン体制という。



特徴

「マンデルフレミングモデル」も参照

財政政策

 閉鎖経済体制の国が国民所得を改善しようと財政支出を増加させた場合、国民所得が増加すると同時に金利が上昇する。しかし、開放経済体制の場合は、小国の金利が世界基準金利を上回るために、国際資本が小国の通貨を買うことになる。
 変動相場制においては、国際資本の流入は国内のマネーサプライの増加をもたらさず、通貨高をもたらすのみである。国際資本の流入によってバブルが発生するという通説のイメージからは違和感を受けるが、マネーサプライも増加せずかつ通貨高によって景気に減速圧力が掛かるのである。この通貨高により純輸出(総輸出-総輸入)が減少し国民所得が減少し、金利が低下する。金利は世界基準金利に一致するまで低下し、財政支出の効果を100%相殺する。[要出典]
 なお、この財政政策が相殺され無効となるプロセスにおいては、金利上昇を打ち消すように海外からの国際資本の流入が起こるため、金利上昇自体は観察されないことに注意が必要である(観察されるのは通貨高である)。すなわち、金利上昇が見られないことを以てして、財政政策は無効でなかった、あるいは国際マクロ経済学のモデルは成立していない、と言うことは誤りである。[要出典]



金融政策

 閉鎖経済体制の国が国民所得を改善しようと金融緩和を行った場合、国民所得・マネーサプライが増加すると同時に金利が低下する。さらに、開放経済体制の場合は、小国の金利が世界基準金利を下回るために、国際資本が小国の通貨を売ることになる。
 変動相場制においては、国際資本の流出は国内のマネーサプライの減少をもたらさず、通貨安をもたらす。この通貨安により純輸出(総輸出-総輸入)が増加し国民所得が増加し、金利が上昇する。金利は世界基準金利に一致するまで上昇し、金融政策の効果をさらに高める。



脚注

1.^ a b c d e 高橋洋一 『高橋教授の経済超入門』 アスペクト、2011年、43頁。
2.^ a b 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年[要ページ番号]
3.^ 三井高維編 『新稿 両替年代記関鍵 巻二考証篇』 岩波書店、1933年[要ページ番号]
4.^ 田谷博吉 『近世銀座の研究』 吉川弘文館、1963年[要ページ番号]



関連項目

固定相場制
円相場
金融センター
ブレトン・ウッズ協定
ニクソン・ショック
アジア通貨危機
経済


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2.ニクソン・ショック

wikipedia-ニクソン・ショック
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF

 ニクソン・ショックとは、1971年にアメリカ合衆国のリチャード・ニクソン大統領が電撃的に発表した、既存の世界秩序を変革する2つの大きな方針転換を言う。当初は前者(7月15日のショック)を指し、後者は「ドル・ショック」と言わていたが、その後後者もニクソン・ショックと呼ばれることが多く、両者を併せて「2つのニクソン・ショック」と呼ばれることもある。

・第1次ニクソン・ショック(ニクソン訪中宣言)は、1971年7月15日に発表された、ニクソン大統領の中華人民共和国への訪問を予告する宣言から、翌1972年2月の実際の北京訪問にいたる新しい外交政策をいう。→ニクソン大統領の中国訪問

第2次ニクソン・ショック(ドル・ショック)は、1971年8月15日に発表された、ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた新しい経済政策をいう。→この頁で説明。

 ニクソン・ショック(ドル・ショック)とは、1971年8月15日(日本時間1971年(昭和46年)8月16日)にアメリカ合衆国政府が、それまでの固定比率(1オンス=35ドル)によるドル紙幣と金の兌換を一時停止[† 1]したことによる、世界経済の枠組みの大幅な変化を指す。当時のリチャード・ニクソン大統領がこの政策転換を発表したことにより、ニクソンの名を冠する。
 ショックと呼ぶのは、それまで金と交換できる唯一の通貨がドルであり、それ故にドルが基軸通貨としてIMF(国際通貨基金)を支えてきたのがブレトン・ウッズ体制であったが、ドルの金交換に応じられないほど米国の金保有量が減ったことにより、戦後の金とドルを中心とした通貨体制を維持することが困難になったこと、そしてこの兌換一時停止は諸外国にも事前に知らされておらず、突然の発表で極めて大きな驚きとともに、その後世界経済に大きな影響を与えたことによる。



概要

 1971年8月15日(日曜日)夜(日本時間8月16日(月曜日)午前)、ニクソン大統領は全米に向けたテレビ・ラジオの声明で新経済政策を発表した。これは当時国内から失業とインフレに対処する新たな措置が求められている状況の中で発表された。

 ニクソン大統領の声明の一部は以下の通り。

「……第二次大戦が終わった時、欧州とアジアの主要工業国の経済は疲弊していました。彼らのためにアメリカは過去25年間にわたり1,430億ドルの対外援助を行いました。それは正しいことでした。今日彼らは我々の援助に大きく助けられて活気を取り戻しました。彼らは我々の強力な競争相手であり我々は歓迎しています。しかし他国の経済が強くなった今、彼らが世界の自由を守るための負担を公平に分担すべき時期が来たのです。為替レートを是正して主要国は対等に競争する時です。もはやアメリカが片手を背中に縛られたまま競争する必要はないのです。……」

「……過去7年間、毎年1回は通貨危機が起きている。通貨危機で一体誰が利益を得たのか。労働者でも、投資家でも、富の真の生産者でもない。受益者は国際通貨の投機家です。彼らは危機で栄える故に危機を起こそうとしています。……」

「……最近数週間、投機家たちはアメリカのドルに対する全面的な戦争を行ってきた。……そこで私はコナリー財務長官に通貨の安定のためと合衆国の最善の利益のためと判断される額と状態にある場合を除いて、ドルと金ないし他の準備金との交換を一時的に停止するように指示した。……この行動の効果は言い換えればドルを安定させることにある。……IMFや我々の貿易相手国との全面的な協力の下で、我々は緊急に求められている新しい国際通貨制度を構築するために必要な諸改革を求めるだろう……」[1]

 この新しい経済政策で国内の失業対策(総額62億ドルの減税も含む)を除いて注目すべき主要な点は以下の3点である。

・金とドルの交換を一時停止[† 1]
・10%の輸入課徴金の導入[† 2]
・価格政策(90日間の賃金・物価凍結)[2][† 3]

 この新しい経済政策の金とドルの交換停止が、第二次世界大戦後の通貨の枠組みであったブレトン・ウッズ体制を解体することとなった。
 これはその当時有効なインフレ対策が打てず、ドルの信認が揺らぎドルの切り下げが避けられないことで、アメリカは深刻な通貨危機に直面していた[1]。そこでドルを防衛して少なくともアメリカ国益を損なわずに欧米各国と日本との多国間調整を一気に進めることを目的にしたものであった。そして4ヶ月後の1971年12月にドルの切り下げを容認して新しい固定相場でスミソニアン体制がスタートしたが、再びドル不安が再燃して各国とも固定相場制を維持することができず、それからわずか1年3ヶ月後に変動相場制に各国とも移行していった。



ショックの要因と推移

 第二次世界大戦が終りに近づいた1944年、米国ニューハンプシャー州ブレトン・ウッズに連合国44か国の各国代表が集まって締結されたブレトン・ウッズ協定は、当時のアメリカ合衆国の経済力を中心として大戦後の世界経済の運営や国際通貨の管理を前提にしていた。
 大戦では本土が戦場とならず、各国への経済的支援を行いその軍事特需で富を蓄積して、戦後圧倒的な経済力を持ったアメリカが戦後の国際金融体制の中心に位置して、ドルだけが金と交換できる通貨として、他の国はドルとの交換比率を固定して、為替相場を固定することによって国際貿易を円滑にして経済活動を活発化させることが目的であった[3]。
 この協定に基づく国際金融体制をブレトン・ウッズ体制といい、アメリカが圧倒的な生産力を持って世界各国へ輸出することで稼いだ貿易黒字を源泉として蓄えた大量の金準備に裏打ちされたものであった。そして各国はブレトン・ウッズ体制の下で安定した国際貿易の利益を享受していた[3]。

 戦前は通貨発行量が希少金属である金の保有量に制約される金本位制であったが、戦後は金・ドル体制とも金為替本位制とも呼ばれ、実質的には金とドルを同じ基軸として置く体制で成り立ち、1950年代は戦後の復興と科学技術の発達による経済規模の拡大、国際貿易や国際投資の拡大、社会保障政策の普及、冷戦による恒常的な軍事費増などで、財政支出の恒常的拡大が進んでいった[4]。
 やがて西欧各国が次第に経済力を回復させて、また日本も高度経済成長でアメリカ以外の各国が経済発展していく中で、アメリカの手持ちのドルが海外へ流出するようになり、金と交換できるドルの絶対的価値が揺らぎ始めるのは60年代に入った頃であった。
 戦後各国が定めた通貨の固定為替レートは、アメリカを除いて、第二次世界大戦の主要な交戦国が戦争で著しく疲弊していた当時の世界の経済状況を前提に定められたレートであり、大戦直後に世界の金保有額の三分の二がアメリカに集中して、ドルの金交換に基づく固定相場制を原則としたIMF体制で成り立っていた。そして戦災から復興した国々の経済が発展するにつれて、固定為替レートは次第に各国の経済力・競争力から乖離した状況になり、50年代に入ると各国の通貨のドルに対する為替レートが英ポンドや仏フランの切り下げ、西独マルクの切り上げなど、その時々に応じた通貨調整を行ってきた。しかし60年代後半になると潜在的要因としてドルの凋落が見え始めていたのである。
 それまでの50年代にアメリカの海外への軍事支出、政府援助、政府借款が貿易収支の黒字分以上を占めて、1960年にはすでにドル危機と懸念される状況になった。アメリカ自体のドル交換に応じる金保有の割合は1948年の3.8倍から1960年には1.6倍に減少していた[† 4]。そこへ1965年のベトナム戦争介入による財政赤字とインフレで国際収支の赤字幅拡大によって1966年に初めて外国のドル準備がアメリカ財務省が保有する金保有額を上回る事態となった[5]。1968年頃からドル危機を潜在的要因としたマルクやフラン危機が顕在化して、1969年8月にフランは11.1%切り下げ、9月にマルクは9.3%切り上げられた。
 1971年当時の先進各国の経済力・競争力と比較して、アメリカのドルは現実の経済力・競争力よりも高い為替レートになり、対ドルの為替レートは現実の経済力・競争力よりも低い為替レートになり、アメリカは国際貿易において赤字を出す不利な状況であった。さらに海外に流出したドルは貿易黒字国の対外準備として蓄積されたため、インフレを加速させた[5]。こうした国際流動性の拡充で米国がドル債務を負う形でドルを供給し、ベトナム戦争もあってドルと交換できる金の準備額がもはや不足していた[6]。
 そして国際収支の赤字はそれ以前から続いていたが、1971年4月に貿易収支が初めて赤字となり、8月に入ってからフランス、8月13日にはイギリスがアメリカに対して30億ドルの金交換を要求した[7]。この時が金・ドル交換の停止を決定する引き金になった[5]。アメリカ政府は、金とドルがリンクした通貨体制(金・ドル本位制)を維持することがもはや困難になったと判断した。そのために起こる国内の事態急変を避けるため10%の輸入課徴金を掛け物価・賃金などを60日間凍結してその期間に各国との多角的調整をしてドルをアメリカにとって一番望ましい形に切り下げる[† 5]方向へ舵を切ったのである。

 1971年8月15日にニクソン大統領の声明が発表された後、欧州各国はまだ外国為替市場が開いておらず、即閉鎖を決定し結局23日に再開するまで1週間は市場を閉じたままであったが、日本はこの声明が出たのが8月16日の午前10時で、すでに外国為替市場が開いており、ドル売りが殺到し、日銀がドル買いに走り、日本の外貨準備高が一気に100億ドルの大台を超えるなど混乱したが、その後も市場を閉鎖することがなかった。
 西欧各国とも対応がばらばらで、西独は2ヶ月前に変動相場制に移行していたし、仏は二重相場制、英は上限変動相場制、オランダなどベネルクス3国は域内は固定相場制で域外は変動相場制をとっており、各国間の調整はつかなかった[8]。
 日本はその後10日余りは固定相場制を維持したが、あまりの為替市場の混乱に、1971年8月27日に外貨準備高が125億ドルに達して、この日の閣議で翌28日からやむなく変動相場制に移行することを決定した。1ドル360円の時代はこの日に終わった。ショックから12日後である。円の為替レートは前日までの360円から変動相場となった初日8月28日に342円となり、その後340円前後にとなり、年末までに320円前後を推移した[6]。



スミソニアン体制へ

 変動相場に移って以後、早く固定相場に戻るべきとして円の単独切り上げで固定相場を復活させる考え方もあったが、結局多国間での通貨調整が行われる見通しになった。そしてG10先進10か国蔵相会議を舞台にした多国間通貨調整は以降、9月半ばのロンドン、9月末からのワシントン、11月末のローマを経て12月半ばのワシントンで決着を付けることとなった。
 最初のロンドンでは米国が黒字国責任論を唱え黒字国の相当大幅な切り上げを求め、金に対する切り下げを拒否した。9月末からのワシントンでは大きな進展はなく米国に輸入課徴金の撤廃とドル切り下げを求める日欧と、あくまで貿易黒字国の責任を声高に主張する米国との対立は解けなかった。11月9日に来日したコナリー財務長官と首相との会談が11日に行われ、席上10%の輸入課徴金の廃止と同時に24%の円切り上げをとの話[† 12] が出ていた。
 11月末のローマでコナリーが初めてドル切り下げに言及して年内決着の見通しが出てくる中で12月12~13日に大西洋上のアゾレス諸島で行われた米仏首脳会談でニクソンとポンピドー大統領との間でニクソンはドルの切り下げを確約した。この頃には円の為替は320円を割って実質切り上げ率は12%になり、西独の実質切り上げ率を上回るようになっていた。
 12月15日に水田蔵相は佐藤首相を訪ね交渉前の最後の打合せを行った。首相は米国がドル切り下げに踏み切ったので「切り上げ巾も大巾でも余り影響混乱はないと思へる」としたが口頭では「然し14%台にとどめ度い」と蔵相に述べている。ただ別には「20%以下ならいい」と聞いたという話もあり、首相はドル切り下げで多少とも切り上げ率が高くなっても影響はないと考えている見方もできる。決着が付いた後の情報が入って「解決した事はとも角一安心」と日記に記している。[11]
 1971年12月17~18日、ワシントンD.C.のスミソニアン博物館で先進10か国蔵相会議[† 13]が開かれ、ここでドルと金との固定交換レートを実質7.98%引き下げ(1オンス35ドルから38ドルへ)、米国の輸入課徴金10%の廃止、固定相場制を維持しつつそれまでの変動幅を上下1%から2.25%に拡大することとし、ドルと各国通貨との交換レートを国家間の多角的調整で決定された(スミソニアン協定)。このスミソニアン協定によって各国の対ドル為替レートが変更され、ここで固定為替相場に戻った[6]。
 その中で日本円は、従前の1ドル=360円から16.88%[† 14]切り上げされ1ドル=308円となった。この日本円の為替レートが決まると他のマルク以下のレートが決まって行った。この切り上げ幅は各国通貨の中でも最大で、他の国では西独が13.5%、英仏が8.57%、オランダが11.57%、伊が7.48%のそれぞれドルに対する切り上げとなり、この時に通過調整をした国は50か国に及んだ[8]。西独がそれまでに何度かの切り上げを行って、なお且つショック前に変動相場制に移行しており、日本はずっと360円の固定相場を維持して切り上げをしてこなかったことが、ここにきて日本だけ大幅な切り上げにつながったことは否めない。
 これを受けて、ニクソンショック後の8月28日から始まった変動相場制が、同年12月19日より再び固定相場制に戻り、なおかつ前日よりも円高の308円への切り上げ(ドルから見れば切り下げ)が実施された。しかし佐藤首相は自身の日記に12月21日付けで「水田君が八時半に来る。ほんとにご苦労でしたが苦労甲斐のある仕事で・・市場も堅調・・為替相場も平穏無事・・。下限に近く三百十四円程度・・・」と述べている。こうしてニクソン大統領は8月15日に大統領が発表した政策の最大の目的であったドルの大幅な切り下げに成功した。



スミソニアン体制崩壊

 しかし翌1972年3月になると当時のEC6か国(西独・仏・伊及びベネルクス3国、この当時の英は未加盟)が域内の国内通貨は固定相場とするが域外のドルに対しては固定相場を放棄して変動相場制に移行する措置[5]をとり、しかもドル売りの動きは止まらず、英国のポンドに投機で売り浴びせられて、6月23日にイギリスが変動相場制に移行。翌1973年になるとイタリアの政界混迷でイタリア人によるスイスフラン買いが増え、スイスフランが変動制に移行した。
 やがて投機はドルに向かい西独で連邦銀行がドルを買い支えたが市場閉鎖に追い込まれた。2月8日にボルカー財務次官が来日して愛知揆一蔵相と会談し、10%のドル切り下げで、円を10%切り上げるように要請して来た。愛知蔵相は日本が取れるのは円切り上げでなくフロートだと主張した。その後結局、日米独間の折衝で円は対ドルで17~20%切り上げに相当する1ドル257~264円で変動させることで合意が成立した。2月12日にシュルツ財務長官が記者会見でドルの10%切り下げを発表し、2月14日に円は変動制に移行した。
 これで一応スミソニアン体制は落ち着いたと思われたが、今度は金相場が暴騰し、マルクにも投機が集中し3月1日に西独連銀がドル買いでわずか1日で30億ドルに達し翌3月2日に閉鎖に追い込まれた。3月9日と16日にパリで主要14ヵ国の通貨会議が開かれたが、19日に市場が再開された時には殆どの国が共通フロートに踏み切っていた[12]。ここに至って、なし崩しに先進国ほぼ全てが変動相場制へと移行した。
 戦後、ブレトン・ウッズ体制が四半世紀続き、その後にスミソニアン体制を作ったがわずか1年3ヶ月しか維持できなかった。これは70年代に入ってから、アメリカはすでに固定相場制を維持できる経済力を失い、戦後から続いた国際金融体制で自国の国力を背景に統制することがもはや困難になったことを意味していた[3]。
 西欧各国と日本の台頭がアメリカ経済の衰退を招き、固定相場の安定が失われていった。日本も1973年2月に変動相場制に移行して以降、固定相場制に戻ることなく、1976年1月、ジャマイカのキングストンで行われた国際通貨基金 (IMF) 暫定委員会において、変動相場制が正式に承認された(キングストン協定)。この変動相場制の時代がそれから40年以上続き今日に至っている。
 そして、「1971年のニクソンショック以降、普通の価値を有していたドルが変動することになり、債権や株式、そして原油の先物市場がつくられ市場経済化が始まった。」[13]と言われるように、金融の自由化が進んで金融市場は拡大した。国際的な資本移動が活発化し、先進国の金融自由化とともに新興国向けの投資も増加し、新興国では外国資本を流入させるためにドルに対する固定相場制を維持する国もあった。このような状況によって、ブレトンウッズ体制の終了はドルの需要をより高める結果をもたらした[14]。



ニクソン不況

 この1971年8月15日のニクソン大統領の新経済政策の発表は世界中にショックを与えたが、このことが日本経済が不況に陥った原因だとすることは正確ではない。
 日本はすでにニクソンショックの1年前の1970年7月から景気後退期に入っており、ニクソンショックの頃はすでに不況であった。前年の大阪万国博の開幕で、それ以前の万博景気に沸いた反動が万国博覧会の開催中に現れてきており、景気動向指数からいくと、東京五輪が開催された1964年10月から景気後退期に入り(証券不況)、1年後の1965年10月に底をついて上昇に入り、それらが1970年7月まで続き(いざなぎ景気)、1970年7月をピークに景気後退期に入り(ニクソン不況)、1971年12月を底に再び上昇に入って列島改造ブームで1973年11月のオイルショックまで好景気になっている。57ヶ月続いた「いざなぎ景気」の後に「ニクソン不況」は17ヶ月続いた。
 ニクソン政権下のアメリカは、政権発足時から景気対策で好ましい成果を出せず、不況でインフレでしかも高い失業率で、なおかつ貿易収支が赤字に転落する1971年7月頃には明らかにニクソンの経済政策が失敗していると見なされていた。日本はこのアメリカの不況の影響をもろに受けていたのである[15]。
 「ニクソン不況」とは、このショック以前のニクソン政権の経済政策の失敗が原因で起こったことであり、「ニクソンショック」とは、この国内の不況と国際経済でのアメリカの役割を見直すカンフル剤として打ち出したもので、ショックが原因で不況になったわけではない。
 スミソニアン協定が締結されて、日本が1ドル308円で固定相場に戻った1971年12月に、日本国内では輸出産業が大打撃を受けると予想する向きもあったが、結果は皮肉にもこの1971年12月を底に景気は上昇期に入っていくのである。



エピソード

 世界を揺るがす経済政策の変更[† 15]が突然発表された時に、まだこの時点では欧州も市場が開いておらず、為替相場の混乱を回避する方策を検討し閉鎖する余裕があった。しかし日本はすでに為替市場が開いている時間であったので日本市場だけが混乱する1日となった。
 後にニクソン大統領は、1971年の金とドル交換停止の理由ひとつは「日本人につけをまわすため」[† 16]であり、1969年の沖縄返還交渉で、佐藤首相が約束した「日米繊維問題での誠意ある行動」すなわち繊維製品の輸出を包括規制する約束を実行しなかったこと[† 17]で「日本の首相にわざと恥をかかせた」[† 18]とした発言をしている[† 19][† 20]。
 この1971年夏頃にニクソン大統領が日本に対して相当怒っていたことは当時の駐米日本大使館審議官の岡崎久彦も読売新聞紙上でも述べており[16]、もう一つのニクソンショック(電撃的な中国訪問発表)と同じように事前に全く日本側に連絡が無かった[† 21]。
 前月の中国訪問の電撃発表ショックとあわせて、外交と経済の分野で、それまでには無かった新しい基軸でアメリカは動くことを内外に示したことになった。アメリカがソ連と中国との緊張緩和を図ろうとしたのは欧州やアジアの双方で封じ込め政策を遂行していくための費用をもはや負担しきれないことを認めたからである。
 ニクソンドクトリン、沖縄返還、戦略兵器削減、ヴエトナム戦争停止、輸入制限、新経済政策などは、いずれもアメリカが相対的衰退の時代に入り、アジアでの軍事的関与を削減するに際して「秩序ある移行」を確実にするためであった[17]。



脚注

注釈

1.^ a b この時点での声明は一時停止であったが、結局恒久的に兌換停止になった。
2.^ ニクソン・ショックを語る時に、金交換停止の側面が強く印象づけられて語られているが、当時の日本国内ではむしろ10%もの課徴金を課された側面の方が問題が大きいと見る向きが多かった。当時の日本の投資家が関心を示したのは国際金融体制の歴史的転換点というよりも、10%の課徴金とこの先の円切り上げが及ぼす輸出産業への影響であった。
3.^ この価格政策について、後にニクソン大統領自身が回顧録の中で「短期的には大きな支持を集めたが長期的には誤った政策だった」と振り返っている。しかし、この賃金・物価の凍結は段階的に縮小されたが結局3年近く継続されて、1974年春に完全撤廃されている。
4.^ 「そうだったのか アメリカ」(池上彰著、2005年10月発行、ホーム社) p.179 … 1949年のアメリカ政府の金保有額は245億ドルで、それが1970年には111億ドルになっていた。
5.^ 「そうだったのか アメリカ」(池上彰著、2005年10月発行、ホーム社) p.180 … ニクソン声明の本質は、ドルが世界の通貨を支えるという責任を放棄するとともに、ドルの切り下げをはかるというもの。
6.^ 前テキサス州知事。知事時代にケネディ第35代大統領暗殺事件で大統領と同乗して重傷を負い九死に一生を得た。この時は民主党員でニクソンの抜擢で財務長官に就任した。同じテキサス州出身のジョンソン第36代大統領とは親しく、後に共和党にくら替えして1980年大統領選挙に立候補したがレーガンに敗れた。その後政界を引退。コナリーの葬式には大統領を辞任したニクソンが参列している。
7.^ 後のFRB議長。『ボルカールール』の提唱者。
8.^ この大胆な経済政策は大胆さを好むニクソンをも驚かす内容であった。後にニクソンは「彼があれほど思い切った提案をするとは予測していなかった」と回顧録で述べている。
9.^ このCEAは大統領に助言するための経済学者が集められているが、歴代委員長には、その後グリーンスパン、バーナンキ、イエレンがFRB議長になっており、またこの時のFRB議長バーンズもかつてはCEA委員長であった。
10.^ 後にコナリーの後任として財務長官を務め、その後レーガン大統領時代に6年半にわたって国務長官を務めた。
11.^ この時のFRB議長バーンズは、米国が一方的に停止を先行させるのはまずいとして、金交換停止がまかり間違えば米国経済や資本主義の凋落を示す歴史的な事件になりかねない懸念を持っていた。
12.^ これは必ずしも要求ではなく話の中での駆け引きのようで、佐藤首相の日記には「一度には無理だと思ふと本人もいっておる」と記して交渉前の感触を探る動きであった。ちなみにこの後の記者会見でコナリーは「調整の幅について要請はしていない」と述べている。何とも勝手な話だが、翌12日に帰国前に急遽会いたいとのことで首相と会っている。礼儀上の帰国の挨拶の後に、「ケネディ大統領が暗殺された時の様子や当人のケガの様子等をきく」と日記に記している。
13.^ この会議が特異なのは、各国とも蔵相、中央銀行総裁、事務方の3名に出席が絞られてそれ以外の事務方の入場を制限したことである。ただ一行に加わった行天財務官室長は、日本語が正確に同時通訳されているかチェックするとして空いた通訳ブースに入り込み、傍聴できた。
14.^ この16.88%の切り上げ率は、スミソニアン会議2日目の全体会議の合間に、コナリーが水田に話し合いを求め、会議室の近くの標本室のような小さな部屋で、柏木顧問、行天財務官室長とが同席して行われた話し合いで決まった。この席で最初コナリーは18%台、水田は17%未満で平行線を辿った。水田は「17%という数字は日本にとって不吉な数字で、昭和初期の金本位制に戻った際の数字で、井上準之助蔵相はその時に暗殺された」といい、ケネディ暗殺に遭遇して自身も重傷を負った経験を持つコナリーはその「暗殺」という言葉でさすがのタフな交渉人もそれ以上は言えなかったという。コナリーからそれなら「いくらなら良いのか」と尋ねられて「308円」と答えてそこで了解が取れたという。「1971年~市場化とネット化の紀元~」 土谷英夫著 p.86 参照 
15.^ 一国の大統領の独断(アメリカ合衆国議会への提案も事前説明も無かった)といった意見もあるが、そもそも大統領には専権事項があり、当然独断で決断することが許される存在である。もう1つのニクソンショックもそうだが、独断だから出来たことである。しかもこの新経済政策は、10%の輸入課徴金を課すという自由経済の旗頭であるはずの超大国が保護主義そのもののタブーとされた政策をも加えており、あくまで一時的な緊急対策であって国内から反対は無かったし、ショック後のニューヨーク株式市場のダウ平均は前週の859ドルから、ニクソン演説の国内景気刺激策を好感して急騰して17日には900ドルに迫る動きであった。
16.^ 「日米関係は何だったのか」(マイケル・シャラー著、市川洋一訳、2004年発行、草思社) p.368 … ただしこの言葉は他からの引用で、Joan Hoff , Nixon Reconsidored (newyork 1994) から引用している。
17.^ 「昭和後期10人の首相」(山岸一平 著、2008年3月発行、日本経済新聞出版)p.69-71 … これはニクソン大統領と佐藤首相との間で認識にズレがあったと言われている。この翌年1970年6月に日米繊維交渉が決裂して、71年1月に自主規制案を出したが拒否されて、このニクソンショック後の1971年10月にようやく妥結している。当時日本側には何故アメリカがこのような規制をかけてくるのかが分からなかった。原因は1968年の大統領選挙でニクソン陣営が繊維業者の多い南部の票を取り込むために約束した選挙公約であったことである。
18.^ 「日米関係は何だったのか」(マイケル・シャラー著、市川洋一訳、2004年発行、草思社) p.400 … ただしこの言葉もジャーナリスト、ヘンリー・ブランドンからの引用である。
19.^ またそのニクソン発言を根拠に、「日本の終戦記念日を意図的に狙ったのではないか」とする見解も存在する(中村政則著『戦後史』(ISBN4-00-430955-7)p.140参照)。ただし声明は日本時間で8月16日午前10時で、またアメリカ人にとっての戦争が終わった日は8月15日ではなく8月14日である。
20.^ 2014年7月24日に外務省が公開した外交文書の中に、1971年3月12日付けでニクソン大統領が佐藤首相に送った書簡が公開され、この中で、日本側が自主規制案を出したことに「本当に驚いた」として「双方が満足できる交渉は不可能と思われる」「こうした方法であなたに手紙を書くことを遺憾に思う」と述べて、日本政府の対応を批判した書簡であった。
21.^ 「そうだったのか アメリカ」(池上彰著、2005年10月発行、ホーム社) p.180 … この日は定例閣議の日で、直前にロジャーズ国務長官から大統領の重大声明があるのでボイス・オブ・アメリカ (VOA) を聞いてほしいとの連絡があった。



出典

1.^ a b 世界史史料 第11巻 20世紀の世界Ⅱ(岩波書店) p.342-343
2.^ ドル体制の崩壊と日本経済(週刊東洋経済 1971年8月28日号)
3.^ a b c 現代アメリカ(土居丈朗著、2010年10月発行)p.61-64
4.^ U.S. Government Budget Fyscal Year 2014
5.^ a b c d 世界の金融史~貨幣・信用・証券の系譜~(入江恭平 著、悠書館) p.417-420
6.^ a b c 激動ニッポン経済100年(週刊東洋経済 2012年4月6日号) p.58-59
7.^ そうだったのか アメリカ(池上彰著、2005年10月発行、ホーム社) p.179
8.^ a b 昭和後期10人の首相(山岸一平 著、2008年3月発行、日本経済新聞出版) p.77
9.^ 「1971年~市場化とネット化の紀元~」 土谷英夫著 2014年1月発行 NTT出版 p.52-75 参照 
10.^ 「1971年~市場化とネット化の紀元~」 土谷英夫著 2014年1月発行 NTT出版 p.75-78 参照
11.^ 「1971年~市場化とネット化の紀元~」 土谷英夫著 2014年1月発行 NTT出版 p.78-84 参照 
12.^ 「1971年~市場化とネット化の紀元~」 土谷英夫著 2014年1月発行 NTT出版 p.93-96 参照 
13.^ 「文藝春秋」2015年1月号 「虚構の成長戦略」資本主義は死んだ 日本大学教授 水野和夫 
14.^ 小林正宏・中林伸一『通貨で読み解く世界経済』中央公論新社〈中公新書〉2010年。
15.^ 「世界歴史体系~アメリカ史2~」432P [ニクソニミクスと新経済政策] 有賀貞 編著 山川出版 1993年7月発行
16.^ 時代の証言者(読売新聞 2014年6月17日 第14面)
17.^ 日米関係は何だったのか(マイケル・シャラー著、市川洋一訳、2004年発行、草思社) p.368



関連項目

・金本位制
・変動相場制
・円切上げ
・ニクソン大統領の中国訪問
・ウォーターゲート事件



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3.金融センター(国際金融センター)

wikipedia-金融センター
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E8%9E%8D%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC

 金融センターは、銀行、証券会社、保険会社など金融業において中心的な役割を持つ市場・都市・地域のことである。有力な証券取引所が所在し、外国為替市場などの国際金融取引が特に活発に行われている場を国際金融センターと呼ぶこともあり、その代表格としてニューヨークやロンドンが挙げられる。



金融センターランキング

国際金融センター発展指数

 2014年11月、アメリカのダウ・ジョーンズ、シカゴ・マーカンタイル取引所及び中国の新華社は、第5回目の国際金融センター発展指数(International Financial Centers Development Index)を公表した[1]。世界主要45の金融センターを評価の対象としており、「金融市場」、「成長・発展」、「物的サポート」、「サービス」、「環境」の5分野の総合評価により順位を決めている。総合評価では4年連続でニューヨークが首位となり、以下ロンドン、東京が続いた。

順位
金融センター
ポイント
1アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク87.72
2イギリスの旗 ロンドン86.64
3日本の旗 東京84.57
4シンガポールの旗 シンガポール77.23
5香港の旗 香港77.10
5中華人民共和国の旗 上海77.10
7フランスの旗 パリ64.83
8ドイツの旗 フランクフルト60.27
9中華人民共和国の旗 北京59.98
10アメリカ合衆国の旗 シカゴ58.22



世界金融センター指数

 世界金融センター指数(Global Financial Centres Index, GFCI)は、イギリスのシンクタンクZ/Yenグループが2007年3月に調査を開始した金融センターの国際的競争力を示す指標である。年に二度(3月・9月)リポートを公表しており、2015年9月に第18回目となる最新版を発表した[2]。 84の都市・地域を評価の対象にしており、首位はロンドンとなった。

順位
金融センター
ポイント
1イギリスの旗 ロンドン796
2アメリカ合衆国の旗 ニューヨーク788
3香港の旗 香港755
4シンガポールの旗 シンガポール750
5日本の旗 東京725
6韓国の旗 ソウル724
7スイスの旗 チューリッヒ715
8カナダの旗 トロント714
9アメリカ合衆国の旗 サンフランシスコ712
10アメリカ合衆国の旗 ワシントンD.C.711




その他

2012年10月、世界経済フォーラム(WEF)が発表した国・地域別の2012年版の「金融発展度リポート」によると、香港が2年連続で世界一となった。2位にアメリカ、3位にイギリスが続いた[3]。

国際決済銀行は、2013年4月に1日当たりの外国為替の売買高を公表した[4]。世界で最も大きい国・地域はイギリスであり、1日当たり2兆7260億ドルと圧倒的な規模を誇り、世界の4割以上を占めている。2位に1兆2630億ドルのアメリカ、3位に3820億ドルのシンガポール、4位に3740億ドルの日本、5位に2750億ドルの香港が続いた。

2015年7月終了時点において、世界で最も時価総額が大きい証券取引所は、ニューヨーク証券取引所で、約19兆3516億ドルである[5]。2位はNASDAQ OMXグループ(NASDAQとOMXの統合企業。各取引所個別の数値は非公開)で約7兆4735億ドル、3位に約4兆9851億ドルの東京証券取引所、4位に約4兆8392億ドルの上海証券取引所、5位に約4兆2423億ドルのロンドン証券取引所が続いた。



関連項目

世界都市
金融市場
タックス・ヘイヴン
オフショア金融センター
プライベート・バンキング



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改訂履歴
なし

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