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2015年12月13日日曜日

【研究ノート】 固定相場制、ブレトン・ウッズ協定


目次

1.固定相場制
2.ブレトン・ウッズ協定



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1.固定相場制

wikipedia-固定相場制
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BA%E5%AE%9A%E7%9B%B8%E5%A0%B4%E5%88%B6

 固定相場制とは、各国政府間で為替レートを固定・維持する制度[1]。
 1944年に国際復興開発銀行(IBRD)と国際通貨基金(IMF)が設立され、自由貿易や資本移動の促進を目的に金1オンス=35ドルと定め、常にドルと金は交換可能とされた(ブレトン・ウッズ体制)[1]。ここにドルを国際通貨(基軸)とするIMF体制が確立された。しかし、1973年に先進各国は変動相場制へと移行した(ニクソンショック)[1]。



制度運営

 固定相場制を実現するためには、以下の二つの方法がある。

1.中央銀行が要求される為替をすべて受け入れる。
2.資金の移動を規制し、固定相場になるようにする。


 2005年7月までドルに対する実質的な固定相場制を採用していた中国は2.の政策を採っていた。
 また、1960年代末の日本は多少の規制があったものの基本的に1の政策を採っていた。
 当時の日本においては、将来的な円切り上げを見込んだドル短期資本の流入(円買い)に応えて日本銀行が円売ドル買介入をしていた。介入により固定相場制は維持できるが、市中に大量の円貨が出回る事態になる。これはティンバーゲンの定理が示すように、金融政策が為替相場の維持に用いられているため、金融政策による景気・物価の安定化が出来ない状態である。これにより金利は低下し信用創造の活発化を招くことになる。実際に、この時期列島改造ブームに乗って地価上昇を引き起こす引き金となった。

 このままでは過度に景気刺激的な金融政策となるため、金利を引き上げ金融引締を行いたいと中央銀行が考えたとしよう。しかし固定相場制度の下で金利を引き上げれば、短期資本流入→円貨流出→金利低下となってしまい、金利を引き下げることは出来ない(→「固定相場制からの制約」)。これを防ぐために短期資本流入を制限すれば、金融市場は閉鎖的となり、自由な資本移動が妨げられ、国際分業による利益を得ることができなくなる。
 このように、固定相場制・独立した金融政策・自由な資本移動の3つの政策は同時に実現することができない[2]。3つのうち、同時に2つしか実現できないのである(→「国際金融のトリレンマ」)[2]。

 そのため、日本は固定相場制を放棄した。中国も世界貿易機関(WTO)加盟後に同じ方向へ向かいつつある。(イギリスなど一部を除く)欧州連合(EU)諸国間においては、各国の『自由な金融政策』を放棄することで、固定相場制を維持している。この固定相場制とは、他ならぬ単一通貨「ユーロ」である。



特徴

 国際マクロ経済学で示されるように、開放経済体制の小国が固定相場制を採用した場合は、財政政策が有効で金融政策が無効になる(マンデルフレミングモデル)。



財政政策

 閉鎖経済体制の国が国民所得を改善しようと財政支出を増加させた場合、国民所得が増加すると同時に金利が上昇する。しかし、開放経済体制の場合は、小国の金利が世界基準金利を上回るために、国際資本が小国の通貨を買うことになる。
 固定相場制においては、国際資本の流入は通貨高をもたらすのでなく、国内のマネーサプライの増加をもたらし金利を低下させる。この金利低下によりクラウディングアウト効果が低下し国民所得が増加する。金利は世界基準金利に一致するまで低下し、クラウディングアウト効果はなくなる。



金融政策

 閉鎖経済体制の国が国民所得を改善しようと金融緩和を行った場合、国民所得・マネーサプライが増加すると同時に金利が低下する。さらに、開放経済体制の場合は、小国の金利が世界基準金利を下回るために、国際資本が小国の通貨を売ることになる。
 固定相場制においては、国際資本の流出は通貨安をもたらすのでなく、国内のマネーサプライの減少をもたらし金利を上昇させる。この金利上昇により民間投資が減少し国民所得が減少する。金利は世界基準金利に一致するまで上昇し、金融政策の効果を100%相殺する。



種類

・ドルペッグ制
・通貨バスケット制
・カレンシーボード制




脚注

1.^ a b c 高橋洋一 『高橋教授の経済超入門』 アスペクト、2011年、43頁。
2.^ a b 高橋洋一 『高橋教授の経済超入門』 アスペクト、2011年、44頁。



関連項目

・変動相場制
・円相場
・為替レート
・国際金融のトリレンマ



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2.ブレトン・ウッズ協定

wikipedia-ブレトン・ウッズ協定
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%83%E3%82%BA%E5%8D%94%E5%AE%9A

 ブレトン・ウッズ協定は、第二次世界大戦後半の1944年7月、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結され、1945年に発効した国際金融機構についての協定である。



概要

展開

 国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)の設立を決定したこれらの組織を中心とする体制である。
 この協定は1929年の世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済圏をつくって世界大戦をまねいた反省によっているだけでなく、第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的があった。そのため具体的には国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国の開発を行い自由で多角的な世界貿易体制をつくるため為替相場の安定が計られた。
 IMFについては、イギリスのケインズ案とアメリカのハリー・ホワイト案が英米両国の間で討議され、ホワイト案に近いものとなった。その際、ドルを世界の基軸通貨として、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めた(金本位制)。この固定相場制のもとで、日本円は1ドル=360円(変動幅±1%)[1]に固定された。
 この体制下で西側諸国は、史上類を見ない高度成長を実現。特に、日本は1950年代から1970年代初めにかけて高度経済成長を実現し「東洋の奇跡」とよばれた。



結末

 しかしその後、アメリカ合衆国と世界の諸国の経済や貿易や財政の規模が著しく増大し、金の産出量や保有量が、経済や貿易や財政の規模の増大に対応することが困難になった。1971年8月にニクソン・ショックによりアメリカはドルと金の交換を停止し、ブレトンウッズ体制は終了した。
 その後、1971年12月にスミソニアン協定でブレトンウッズ体制の骨格を維持しようとするも、1973年には本格的に変動相場制に移行し、ブレトン・ウッズ体制は完全に終結した。



学者の見解

 経済学者のジョセフ・E・スティグリッツは

「第二次世界大戦後から1973年まで続いたブレトン・ウッズ体制の下では固定相場制だったので、現在(2013年)のグローバル経済よりも安定していたことは確かであり、最近のアメリカの経済学者の中からブレトン・ウッズ体制を再評価する声も出ている。しかし、ブレトン・ウッズ体制は、各国の生産性にばらつきが出てきたときに、対応できなくなってしまった。その結果、ブレトン・ウッズ体制は崩壊し、変動相場制に移行した」

と指摘している[2]。



脚注

1.^ 『図解雑学 通貨と経済』p219 ナツメ社 野村茂治・著 2005年
2.^ ジョセフ・E・スティグリッツkotoba(コトバ) 2013年6月号



関連項目

・固定相場制
・国際金融のトリレンマ
・スミソニアン協定
・ワシントン・コンセンサス - ケインズ主義に基づく「ブレトン・ウッズ体制」の後[要出典]の、1971年から1973年の間の「スミソニアン体制」、1973年から1979年の間の過渡期を経て、1980年から今現在まで進行中の、新自由主義に基づく体制を「ワシントン・コンセンサス体制」という。
・バンコール
・ドル本位制



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改訂履歴
なし

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